若きジョブズが描いた「世界を変える」という夢 1人1台「私のコンピューター」を行き渡らせる

✎ 1〜 ✎ 3 ✎ 4 ✎ 5 ✎ 最新
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

1970年代に入り、DEC(デジタル・イクイップメント・コーポレーション)がPDPシリーズと呼ばれるミニ・コンピューターを作るようになっても、業界では普通の人が所有し、机の上に乗せて使えるモデルに需要があるとは考えられていなかった。1974年に当時の社長は「個人が自分のコンピューターを欲しがる理由など思い当たらない」と断言している。

「私の目的は、未来に起こりうることを より速くすることだ」ノーマン・ブッシュネル。囲碁からヒントを得て「Atari」という名をつけたゲーム会社で大成功を収める。そこには若きジョブスが働いていた。1992年2月25日(撮影:小平 尚典)

その間もムーアの法則は働き続ける。インテルの創業者の1人であるゴードン・ムーアが1965年に提唱したことから「ムーアの法則」と呼ばれるこの経験則は、一般には「半導体の集積率は18カ月で2倍になる」と簡略に表現されることが多い。これは「半導体のコストは18カ月で半分になる」ということでもある。細かい誤差はあるにせよ、トランジスタやマイクロ・チップが短期間で飛躍的に高性能化し、小型化し、安価になっていくことは間違いない。

それを後押ししたのが冷戦下の軍事的な需要と、ジョン・F・ケネディ大統領(当時)が打ち出した宇宙開発計画だった。ミニットマン・ミサイルを誘導するのにも、アポロ・ロケットを誘導するのにも大量のマイクロ・チップを必要とする。政府関連での大量の需要が見込まれることから単価は急速に下がっていく。こうして一般消費者向けのデバイスにもマイクロ・チップを載せられる市場が生まれた。

わが家にやってきた「電卓」というコンピューター

1人に1台とはいかないけれど、わが家にも1台のコンピューターがやって来た。電卓である。これこそ、僕たちが最初に触れたコンピューター(電子式計算機)だった。

ミニットマン・ミサイルとアポロ・ロケットは、日本の小都市で暮らす公務員一家に電卓を運んできたのである。中学生のときだから1972年か1973年だろうか。四六判の本くらいのサイズの電卓を、うちの母は夜な夜な家計簿をつけるのに使っていた。一方で小学生の妹はそろばん教室に通っていた。時代は変わろうとしていた。

調べてみると、1964年に発売された早川電機(現・シャープ)のCS-10Aの価格は53万5000円である。なんと、あのちゃちな電卓が当時のお金で50万円もしたのだ。1965年にはカシオが電卓に参入、その001型は38万円。まだまだ高価である。しかしムーアの法則がいよいよ本領を発揮し始める。

それまでの電卓は電子回路にラジオ用のトランジスタを用いていた。このため計算機は大型で高価になる。代わりにIC(集積回路)やLSI(大規模集積回路)などのマイクロ・チップを使おうと考える人たちが現れる。

次ページLSIの登場で電卓の価格は一気に低下
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事