「違和感だらけの人生」にキレないための新提案 物事に「一喜一憂しやすい人」に伝えたい

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さて、考えるべきは今後の生活です。「アフターコロナ」という言葉で「新しい生活様式」が模索されていますが、ここでものをいうのが、「ポストモダニズム」のアート的感性です。

ポストモダニズムは、モダニズムへの根本的な批判に基づく態度です。あくまで古典的な美をいたるところに積極的に見出そうというモダニズムとは反対に、美などなくてよいかも、と斜に構える態度です。「真善美」「効率、福祉、健康」のような特定の価値観にしがみつくのはやめよう、文脈に合わせて柔軟にやっていこう、という態度ですね。ポストモダニストは、発想の転換を重視します。

ポストモダニズムのアートから、極端な実例を3つほど紹介しましょう。

まず、ロバート・バリーの作品。展覧会の案内状に従って現地へ着くと、鑑賞者を待っているのは、閉鎖されたギャラリー。ドアには「展覧会期間中ギャラリー閉鎖」と張り紙がしてある、という作品です。1969年、アムステルダムで展示されました。

展覧会を見ようとわざわざ出向いた人は「馬鹿にするな」と怒ったかもしれません。「怒りを掻き立てることになる招待状」こそが本当の作品だったのでしょうか。怒りの感情にも価値があるだろう、というメッセージとして。それとも、「観ることはできないが、実際に中に展示されている絵、または彫刻」が作品だったのでしょうか。世阿弥の『風姿花伝』にある有名な「秘すれば花なり」を実践した作品、という解釈になるでしょう。

あるいは、「展覧会が開かれているという事実」こそがアートの本質だという、すべての展覧会に共通した真実(?)を展示した、と見るべきでしょうか。あるいは、「何かを鑑賞しに来る」という行為そのものがすでに鑑賞の最も重要な部分かも、と問いかけているとか。はたまた、展示を見に来た人たちが現地で出会い、ドアの前で戸惑って話をしたり、付き合うようになったりするという、日常生活の一断面がアートだというのかもしれません。

それとも、「こんな悪戯(いたずら)のようなものがアートであってよいのか」と挑発し、「アートっていったいなに?」と考えさせるためのパフォーマンスなのでしょうか。以上の解釈は、この作品の鑑賞法のほんの一部です。解釈に悩むこと自体が、その作品の本体なのかもしれません。

音楽なのか、演劇なのか、何なのか

次は音楽からの例です。ジョージ・ブレクトの「フルート独奏曲」。1962年に作曲された作品ですが、その楽譜には「フルートをバラバラに分解せよ。そして再び組み立てよ」と書いてあるだけ。

聴衆は、フルートの楽音を聴くことはなく、演奏者が部品をいじる物音を聞くだけです。あるいは舞台上に眺めるだけ。これは音楽なのか、演劇なのか。それとも何か別のものなのか。いずれにせよ、アート内部の境界を曖昧にし、問い直すような作品です。似た作品に、バイオリンを布で磨き続ける、ピアノの側面を手で叩き続けるといった曲もあり、それぞれ著名なバイオリン奏者、ピアノ奏者が演奏しています。

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