ヤメ外資ITのタクシー運転手が弁護士志す人生 流転タクシー第3回、収入大幅減でも前を向く

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森田さんは、奈良県の高校を卒業後にミュージシャンを志し上京している。独学で英語を勉強し、TOEICの点数も930点を越えていた。大学で学びたいことがなく、当時は大学進学の意味を見いだせなかった。

10代はエネルギーを音楽にすべて注いだ。忌野清志郎に憧れ、西荻窪で週1回程度ライブをしながら、コンサートスタッフのアルバイトで食いつなぐ日々。音楽への道を断念したのは21歳のときだった。

「私の才能では音楽だけで食べていくのは、難しいと気づきました。中途半端なことはしたくなかったし、手に職をつけてお金を稼ぎたかった。そんなときにこれから伸びる業界を考えたところ、ITでした」

時代は1990年代半ば。まだ一般的にIT業界のエンジニアを目指す人は多くなかったため、需要はあふれていた。知人のツテをたどり、小さなIT企業の派遣社員として社会人のキャリアをスタートした。はじめて聞く言葉ばかりで手探りで知識を得ていったが、PCと向き合う作業は肌にあった。年収は300万円ほどでも、まったく気にならなかったという。

下積み期間を終えた森田さんは、語学力を生かし当時業界最王手の外資系企業へと転職している。年収は20代でありながら1000万円近くに達した。生活は激変し、アメ車を乗りまわし、週末には六本木で豪遊した。だが、懐具合とは反比例して空虚な感情は年々膨らんでいったそうだ。自身の人生について自問自答する時間も増えた。

お金では満たされなかった

「とにかくお金だけはありました。IT技術者の需要があったし、忙しくて使う時間もないからお金は貯まる一方。ただ、正社員とやっている仕事は一緒でも、僕はどこまでいっても派遣。

名前を言われずに『派遣サン』と呼ばれることあった。そういうふうに言われるのが悔しくて。一般的にエリートと言われる彼らの働き方に触れても、羨ましいとも思えなかった。それを契機に豊かな人生とはどんな人生か、と考えるようになりました」

激務をこなしながら、通信教育で大学にも通い始めたのもこの頃だった。

そして森田さんは高待遇のIT企業を退職し、青年海外協力隊として30歳手前でジャマイカに赴任することを選択した。2年4カ月という定められた期間だったが、初の海外生活は刺激の連続だった。

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