ビスマルクに学ぶ「動乱期」を生き抜く外交戦術 ドイツ統一を成し遂げ、欧州外交を支配した

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1815年から48年まで、このドイツ連邦の実質的な指導者として君臨したのは、メッテルニヒである。メッテルニヒはこの連邦を支配することにより、ドイツ圏の統率力を握った。そしてこのドイツ連邦と「神聖同盟」と呼ばれた墺露普の三君主国同盟を巧みに操ることによって、ヨーロッパを支配したのである。このため19世紀前半期の欧州外交は、しばしば「メッテルニヒ・システム(ウィーン体制)」と呼ばれた。

ビスマルクは1851年、プロイセンを代表する大使としてこのドイツ連邦議会に派遣された。彼はドイツ連邦が、「プロイセンを封じ込めておく」そして「ドイツ圏の統一を阻止する」という2つの役割を果たしていることを発見して驚愕し、激しく反撥した。

そして闘争心満々であった若き外交官ビスマルクは、「僕が、このメッテルニヒ・システムを破壊する。ドイツ連邦を解体して、プロイセン指導下にドイツを統一してみせる!」と決意したのである。

そして彼は、それを実現するためのシナリオをいくつも考え始めた。毎日、毎日、そのことばかり考えていた。そして1860年代になると、自分が考案した統一構想のために諸戦争を実行し、1871年にドイツ帝国を創立したのである。西ローマ帝国崩壊後、常にバラバラでつまらぬ内輪もめばかり繰り返していたドイツ民族を、史上初めて統一したのである。ビスマルクは「ドイツ建国の父」となった。

国際政治システムはかえって不安定に

皮肉なことに、ドイツ民族が史上初めてnation-state を創ったという偉業によって、その後の国際政治システムは顕著に不安定なものとなった。多くの外交史家が、「ドイツの統一がなかったら、第一次世界大戦と第二次世界大戦は起きていなかっただろう」と指摘している。統一されたドイツのアグレッシブで挑戦的な政策が、Germanophobia(強すぎるドイツに対する恐怖症)に罹(かか)った英仏露3国を、2度の世界大戦に追い込んでいったからである。

17~19世紀の欧州外交には、"バランサー"と呼ばれる国が存在していた。欧州地域のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)体制を、意図的に維持しようとする外交を実行する国のことである。通常、このバランサーの役割を務めた国はイギリスであった(オーストリア、フランス、ロシアが、バランサーとして行動した時期もある)。

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