エジプト版「明治維新」が失敗した本質的理由 戦い急いだエジプトと力を蓄えた日本の差
エジプトにやってきた西洋の衝撃
第7回十字軍の混乱の中で生まれたエジプトのマムルーク朝は、1517年に「イスラムの盟主」オスマン帝国に滅ぼされ、その支配下に入りました。
ところが、16世紀からオスマン帝国の無敵神話は崩れ始めます。エジプト南部は、かつては小麦の一大産地でオスマン帝国の穀倉庫でしたが、土着の領主がフランスから生糸や綿花を取り入れて栽培し始め、フランスや仏領西インド諸島と経済的に強く結び付き、フランスの世界的な商業ネットワークの一翼として取り込まれてしまいました。
ナポレオンの時代、フランスはイギリスのインド支配の打破と通商路の破壊を目指してエジプトに侵攻。マムルーク主体のエジプト軍は、カイロ西部のインバーバで行われた「ピラミッドの戦い」でナポレオン軍に大敗を喫し、2年間ではありますがフランスの支配を受けることになります。
この敗北によりエジプト人は西洋の軍や技術の脅威をまざまざと見せつけられました。フランスの支配はエジプト人に民族意識や攘夷意識を芽生えさせ、カイロでは大規模な抵抗運動に発展しました。この人々のエネルギーを束ねて近代化を目指したのが、エジプトの維新の立役者、ムハンマド・アリーです。
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