エジプト版「明治維新」が失敗した本質的理由 戦い急いだエジプトと力を蓄えた日本の差

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

ムハンマド・アリーはオスマン帝国のアルバニア人非正規部隊を率いてフランス軍との戦いに参戦し、そこから急速に頭角を現していきます。

ナポレオンのフランス軍が降伏しイギリス軍も撤退した後、エジプトは諸勢力が主導権をめぐって争う内戦状態に突入します。ムハンマド・アリーはその中で競争に打ち勝ってエジプト人の支持を得て総督に就任。オスマン帝国の承認も得ることに成功します。

ムハンマド・アリーのエジプト維新

エジプト総督となったムハンマド・アリーは、オスマン帝国の名目的な宗主権の下、実質的な独立国を築き近代化政策を進めていきます。

まずムハンマド・アリーが乗り出したのは軍事改革です。それまでの特定の部族や集団に依存していた軍の組織を廃止し、初めてエジプト農民に徴兵制を敷き兵力を増強し、フランス人の軍事顧問を招聘し訓練を施しました。

近代的に生まれ変わったエジプト軍は、オスマン帝国軍が手こずっていたワッハーブ派やエジプトの反オスマン騒乱、ギリシアの独立勢力をまたたく間に鎮圧してみせ、列強を驚かせました。

しかし、英仏露の3カ国はオスマン帝国にギリシアの自治と停戦を要求。オスマン帝国は同意できるはずもなく、1827年10月、オスマン帝国とエジプトの連合艦隊と英仏露3カ国連合艦隊との間に戦闘が勃発し、オスマン・エジプト連合艦隊は敗れてしまいます。

激怒したオスマン帝国の皇帝マフムト2世は、3カ国に宣戦布告しますが、連戦連敗。1829年9月にアドリアノープル条約を結び、ギリシアとセルビアの自治を認めさせられ、翌年ギリシアは独立することになります。

この頃、ムハンマド・アリーはオスマン帝国にギリシア戦役の論功行賞として要求していたシリア(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ)の総督職を要求します。しかしオスマン帝国も財政難で、マフムト2世も首を縦に振らない。

ムハンマド・アリーは実力でシリアを奪取すべく、急ピッチで軍の再建を進め、2年後の1831年10月に歩兵と騎兵計八個連隊がシナイ半島に向けて出発。海でも軍艦16隻を始めとする海軍がシリアへ向けて出港しました。ムハンマド・アリーの息子で有能な将軍イブラーヒム率いるエジプト軍は、新たに設立されたオスマン帝国の洋式軍隊相手に連戦連勝を続け、とうとう首都コンスタンティノープルの近くにまで迫りました。

ここでエジプトの強大化を恐れるロシアとイギリス、フランスの介入があり休戦協定が結ばれ、シリア地方のエジプトの領有が認められました。イブラーヒムは獲得したシリア地方の土地の国有化や税制改革、教育など近代化策を進めていきます。

次ページムハンマド・アリーの経済改革
関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事