エジプト版「明治維新」が失敗した本質的理由 戦い急いだエジプトと力を蓄えた日本の差
このようなエジプト軍の成功は、社会、経済、産業、教育など広範囲な面での近代化に裏打ちされていました。
ムハンマド・アリーは権力奪取後、すぐに財政・税制改革に乗り出し、中間搾取層を撤廃し、農地を一元的な管理の下に置き、効率的な徴税を可能にしました。また、農産物の専売制を実施し、小麦や米の輸入で外貨を獲得します。専売制や国の独占は農業のみならず工業面でも実施されました。
ムハンマド・アリーは国家主導で製造業を育成し、軍需工場、綿工業、毛織物などさまざまな分野の国営工場を設立。同時に安くて品質の高いイギリス産の製品の輸入を規制し、産業の保護を図りました。
ムハンマド・アリーは「後発国を発展させるためには自由貿易は規制すべき」と考えており、国産品の品質が上がり国際的に競争できる水準になるまで、国による保護と育成が行われるべきとしました。
ムハンマド・アリー統治下のエジプトの経済開発体制は、「軍・政治エリートの強力なリーダーシップの下、有能な官僚テクノクラートが経済政策を立案・実行していき、上から企業・資本家・労働者を育成していく」という典型的な開発独裁型でした。
これは20世紀半ば以降に、韓国やタイ、台湾、シンガポールなどの国々が経済発展を成し遂げたやり方の先駆的なものでした。しかし、運悪く、このような成功は長続きしませんでした。
エジプトの敗北と挫折
イブラーヒムが統治するシリア地方では、エジプト流の急速な近代化政策が採られますが、各地で反乱が相次ぎました。
これに乗じてオスマン帝国のマフムト二世は失地の回復を図ろうとして対立が深まり、1838年5月にムハンマド・アリーはエジプトの独立を宣言するまでに至ります(後に撤回)。
翌年、マフムト2世はエジプトに宣戦布告。アナトリア方面軍ハーフィズ・パシャ率いる八万の軍がシリアに向かいますが、またしてもエジプト軍はオスマン帝国軍を各地で打ち破り、オスマン帝国はエジプトに降伏してしまいます。これは、オスマン帝国の実質的な解体と新興国家エジプトの台頭、そしてロシアの南下を決定づける出来事でした。
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