ビスマルクに学ぶ「動乱期」を生き抜く外交戦術 ドイツ統一を成し遂げ、欧州外交を支配した

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イギリスは島国であり海洋国であったから、「いつ、欧州大陸の紛争に介入するか?いつ、不介入政策を採るか?」ということを、選択する自由を持っていた。例えば欧州大陸にA、B、C、Dという4大国が存在するとしよう。A国が強くなりすぎてBCD諸国を圧倒するような勢いを示した時、イギリスはBCDの味方をしてA国による覇権確立の動きを阻止し、欧州のバランス・オブ・パワーを維持した。

そしてB国が強くなりすぎた場合には、イギリスはACDの味方をして、B国を牽制した。勢力均衡システムというのは、イギリスのように意図的にバランサーとして行動する意志と能力を持つ国が存在していないと、長期的に維持するのが難しい体制なのである。

(注)過去2000年間のアジアには、このようなバランサーとして行動する国は存在しなかった。したがってアジアの大部分は、バランス・オブ・パワー外交に対して鈍感である。日本の戦前の中国大陸占領行為は、日本を包囲する米中露・三覇権国をすべて同時に敵に回してしまう外交であったから、イギリスの伝統的なバランス・オブ・パワー政策とは正反対のものであった。

しかし1871年にビスマルクがドイツ民族を統一したことで、イギリスはバランサーとして行動する能力を失ったのである(当時の墺露両国は、すでにバランサーとして行動する能力を失っていた)。

統一後のドイツの発展は目覚ましかった

統一国家を創設した後のドイツの経済力・軍事力・科学技術力の発展は、目覚ましいものであった。例えば軍事力に直接のつながりを持つドイツ重工業の生産力は、1880年にはイギリスの重工業生産力の3分の1しかなかったが、1910年には、イギリスより25%も大きくなっていた。たった30年間で、英独の工業力は大逆転したのである。ドイツ陸軍は1871年、すでに世界最強の陸軍であったが、ビスマルクが引退した1890年には、仏露両国の大規模な陸軍を同時に敵とする二正面作戦を敢行できる能力を獲得していた。

17世紀から19世紀中頃までの欧州において、イギリスがしばしばバランサーとして行動できたのは、1871年以降のドイツのように巨大な工業力と軍事力を持ち、有能で勤勉な国民をいつでも大量動員できる国家が存在していないことが前提条件であった。過去千数百年間、常にバラバラの状態であった優秀で規律正しい(そして、時に傲慢で独善的な)ドイツ民族が統一国家を建設したことによって、ウェストファリア条約やウィーン会議において諸大国が苦労して作った勢力均衡システムが、徐々に機能不全の状態に陥っていったのである。

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