ビスマルクに学ぶ「動乱期」を生き抜く外交戦術 ドイツ統一を成し遂げ、欧州外交を支配した
ビスマルクの創った統一ドイツは、明らかに強すぎる国家であった。中世時代から1871年まで脆弱な立場にあったドイツ民族が、短期間のうちに、「国際政治の被害者民族」という立場から「他国を恫喝して屈服させる能力を持つ最強民族」に変身したのである。突然、最強国家になった統一ドイツによって、欧州に厄介な「ドイツ問題」が発生したのは当然の成り行きであった。
1870~90年のドイツ指導者の中で、「統一されたドイツは、そのうち厄介な国際問題を作り出すだろう」と認識していたのは、宰相ビスマルクだけであった。大胆で強引な外交と戦争によって「強すぎるドイツ」を創った張本人が、「今後のドイツは、外交と軍事で大失敗する可能性がある」と予感していたのである。
強気の外交から慎重姿勢へ大転換する
ビスマルクがドイツ統一後、あっという間に今までの「強気の武断主義外交」を捨てて「慎重な避戦主義外交」に転身したのは、そのためである。彼は、自分が創った「強すぎるドイツ」が、周辺諸国に反独感情(Germanophobia)を植え付けることになり、仏英露等の諸国がいずれ反独的な連合を作る可能性を予想していたのである。
ビスマルクはこの反独的な連合を「le cauchemar des coalitions(悪夢連合)」(ル・コシュマール=悪夢)と呼んでいた。ほとんどのドイツ国民が、デンマーク・オーストリア・フランスをドイツ軍が矢継ぎ早に叩きのめした大成功に有頂天になっていた時、人前ではいつも自信満々の態度を崩さなかった宰相ビスマルクだけが、「これはいずれ、まずいことになるぞ。ドイツ外交は悪夢だ、コシュマールだ」と感じていたのである。
その結果、1870年代と80年代のビスマルク外交は、仏露英墺伊5ヵ国に反独的な連合を作らせないための辛抱強くて柔軟で機敏な外交アクロバットの連続であった。この時期の欧州外交はビスマルクによって牛耳られていたため、外交史家はこの時期の外交を「ビスマルク・システム」と呼んでいる。
「メッテルニヒ・システム」を大胆に叩き壊した荒武者ビスマルクが、その後の「悪夢の反独連合」を心配して、防御的で避戦的な「ビスマルク・システム」を創ったのである。"リアリズム外交の天才"ビスマルクでなければできないブリリアントな大転換であった。
「ドイツ勢力圏の拡大は不要だ。欧州の勢力均衡を維持せよ。勝てる戦争をやってはいけない」というビスマルクの深い智慧と長期的な戦略観を理解できたドイツ人は、ごく少数であった。しかしビスマルクは孤立に耐えて、世論や「時代精神」と闘い続けたのである。ビスマルクは、多くの性格的欠陥を抱えたエゴイスティックな激情家であった。しかし彼は最後まで、国際政治における「冷徹な理性の人」であった。
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