コロナ危機の今こそ考える!「税を払う」深い訳 国難を乗り切るには「無償の愛」が何より必要
もちろん行政サービスにはコストがかかっている。税金を払わなくてもそのサービスを受けられるのは、誰か別の人がそのコストを負担してくれているからである。ではそのコストを負担する人、すなわち税金を払う人は、何のため、誰のために税金を払っているのか。
その人は、世のため人のために税金を払っている。税金を払えない人でも、公的サービスを享受できる状態。それを維持するために、納税者は税金を払う。つまり、自分ではなく「他者のため」に支払うのが税金なのである。ここにこそ、税金というものの本質がある。
税金は、自分のために払うのではない。世のため人のために払うものなのだ。もし国民の誰かが税金を払えなかったとしても、その分はほかの人が代わって払う。その「ほかの人」には自分が誰のために税金を払っているのかはわからない。相手を特定したり選んだりできない。それをやりたがってはいけない。ここも、税金と会費の大きな違いだ。自分の家族や友人のために会費を立て替えるのとはわけが違う。
税金を会費だと考えてしまうと、「払った分だけ見返りがあるのが当然だ」という論理も出てくる。租税会費説に立てば、人より多くの税金を納めている高額納税者はいわば特別会員ということになり、何かしらほかの人にはない特典、恩恵がもらえて当然だということになる。
これは本質的な思い違いである。そんな特典は税金には決してない。多く払おうと少なく払おうと、国の扱いも自治体の扱いも同じ。当然である。政策で金持ちを優遇するなどということがあってはならない。
政策で救うべきなのは貧しい人たちである。たくさん税金を払えるような人は、政策のお世話になる必要はない。税金は、あくまでも、払える人が払えない人のために払うものなのである。われわれ納税者はそういう納税意識、納税倫理を理解したうえで税金を納めなければならない。
ところがこの点について、わが国では国民どころか、徴税当局が決定的に認識不足で、税金は会費だなどといっているのである。徴税責任を担っている国や自治体の担当者たちが、自分たちは何のために国民に納税をお願いしているかをきちんと理解していない。今回、この本を書くにあたっていろいろ勉強した中で、私にとってこの点が最大の驚きであった。
「ふるさと納税」は歪んだ納税意識を生む
徴税当事者たちの意識の低さ、それは「ふるさと納税」なるあさましい制度の存在を見ても明らかだ。ふるさと納税では、納税側が納税対象自治体を選択する。選択基準は返礼品だ。人々は気に入った返礼品欲しさに自治体を選んで納税する。
つまりふるさと納税とは、まさに「自分の利益のために」払われている。その趣旨は本来の税金のあり方とは正反対だ。返礼品に吸い寄せられてしまう納税者も納税者だが、そもそもそんな制度を徴税する側が発想すること自体、ありうべからざることである。
ふるさと納税の論理は「税金には払った分だけ見返りが伴う」とか「高額納税者は特別会員だ」という租税会費説の論理そのものだ。お気に入りの「ふるさと」に寄付をすれば、税金をまけてもらえるうえにお礼までいただける。それも、自分が欲しいお礼を選ぶことができる。こんな仕組みを徴税側が思いついてしまう。これは何事かと思う。納税は「お買い物」ではない。徴税責任者たちは、お店の呼び込み係ではないのである。
このようなとんでもない制度が堂々と施行されているというのは、何とも情けないことだ。徴税当事者たちの意識の低さ、徴税哲学の欠如に号泣するほかはない。
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