山下俊彦「パナソニックの危機」を予見した男 日本電機産業が圧倒的NO.1から凋落した真因

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1986年1月20日、場所は大阪全日空シェラトンホテル。招集をかけられた記者たちは一様にいぶかしんだ。3年半と期限を切った改革運動「A61」はまだ1年を残している。山下を選んだ幸之助は「10年はやってもらう」と言っていた。なぜ、こんな中途半端な時期に辞めるのか。

「どういう点が不明確ですか」。記者たちに逆質問するところが、山下である。「今、辞めるのがいちばんいい。A61で松下電器は終わりではない。1つの過程です。目鼻はついた。ただ、それで終わりじゃない。いつをとっても、過程なんです」。

後任に選んだのは、副社長の谷井昭雄だった。谷井への言葉はこうだった。「改革を仕上げてもらう。しかし、必ずしも私の路線を行かねばならないということはない。環境変化があれば、変わっていいんです。思うようにやってもらったらいい」。

記者の中から「燃え尽きた、ということですか」という質問が飛んだ。「そんなふうに見えますか。だけど、シンドイですわね。(私の)就任の仕方が異常でしたから。ご苦労はありすぎくらい。よく9年ももったと思う。あんまり言うと、決めた相談役(幸之助)に悪いが、非常に迷惑しましたからね。だから、私の後継者はできるだけ早い時点で決めました」。

社長時代の思い出は何でしょう。定番の質問が出た。「思い出? 何もない。強いて言えば、(社長に)なったときと、今、辞めるとき」。

山下が退任したとき、松下電器の売り上げは3兆4241億円、営業利益1467億円。在任中、それぞれ2.6倍に押し上げた。辞めた瞬間、そのすべてを忘れ去ろうとしていた。

会見の終わりに山下はポロリ言った。「やれやれ、ですわ」。

理想的な企業はいかにあるべきか

社長を退いた後、山下が著した自叙伝のタイトルは「ぼくでも社長が務まった」である。こんなタイトルを平気でつけた。こんな社長、いなかった。

社長時代の山下は、よく現場に足を運んだ。日が当たらなくても、一生懸命やっているか。人が仕事に取り組む姿勢を何よりも大切にしていた。

山下が言う「一生懸命」は、上から命じられるままを遂行することではない。「人が人を使うということでは通らない」が、山下の信条だった。一人ひとりが自ら主体性をもって考え、計画し、実行する。一人ひとりが主人公でなければならない。山下は本気でそう考えていた。

だから、社長として最初の経営方針の中で宣言した。「理想的な企業はいかにあるべきか。従業員一人ひとりの目標の延長線上に会社の目標もある、という姿がいちばん望ましいわけです」。会社ではなく、まず個人一人ひとりがいる。一人ひとりのダイバーシティー(多様性)の上に会社を構築することこそ望ましい。

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