蛇足だが、私自身はこの本を何かのきっかけで読んだことで、最終的に経済学部に進学することを決めた。以降、数ある経済学書を読み、経済学アカデミアをウォッチしてきたが、当時から今も変わらない感想を持っている。
それは、経済学とは学力偏差値でものすることができるような生易しい学術ではなく、それにも増してセンスが重要だ、という当たりまえの事実を前にしてのしみじみとした感心である。
『貨幣論』に取り組む
そして、満を持して、岩井氏は貨幣論に取り組む。
問題意識としては、『不均衡動学』を執筆した際に、ケインズが強調していた貨幣経済がもたらす不安定性を、半ば所与として考察し理論構築をしたが、自身としてもきちんと腑に落ちる形で考えたい、というところにあった。
資本論、貨幣論はともに、新古典派経済学、ケインズ経済学、マルクス経済学の別なくその根幹に存在するものである。資本主義論同様、その経済の根幹部を、岩井氏らしく純粋理論として論考を重ねていく。
岩井氏は、古今東西の貨幣論を読み漁る。「貨幣は商品である」(商品貨幣論)。「貨幣は法が定める」(貨幣法制説)。「貨幣は負債の記録である」(貨幣名目説)。しかし、そのどれもが腑に落ちない。
もちろん、経済学の教科書には貨幣の定義は載っている。岩井氏の疑問は「なぜ貨幣は貨幣として機能するのか」というところにあった。それが理解できれば、ケインズの考える不確実性がわかり、不均衡動学に残されていた大きなピースを埋められると考えた。
先行する貨幣論を一つひとつ、理論的矛盾や反証の事実を基に論駁(ろんばく)していく、その長い紆余曲折と試行錯誤を経て、岩井氏は「貨幣は貨幣として受け入れられるから貨幣として機能する」という結論に至る。
岩井氏はこれを「貨幣の進化」の論文としてまとめ、それを下敷きにマルクスの「価値形態論」を読み解く作業を開始。1991年に『批評空間』という雑誌の連載として始まり、1993年に書籍『貨幣論』として刊行される。
マルクスの「価値形態論」は、それに則って純粋に徹底していくと、マルクス経済学がその基礎として依拠する「労働価値説」を破壊してしまう。つまり自己矛盾を起こしてしまうということを指摘しつつ、「貨幣の自己循環論法」によってそれが引き起こされることをマルクスのテクスト自体がいわば無意識に予見していた、と指摘する。
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