『不均衡動学』という“ケインズ経済学の図鑑”を作り終えた岩井氏は1981年に東京大学に職を得た。そして、その後の研究として、資本主義論と貨幣論をそのスコープに入れる。岩井氏の研究の特徴でもあるが、純粋理論としての追究を始める。
ケインズと同年に生まれ、早熟の天才として知られるヨーゼフ・シュンペーターが28歳のときに発表した主著『経済発展の理論』の驚異的な洞察力の秘密を探りたいと考えた。
資本が合理的かつ最適に投下されると、新古典派の均衡理論においては利潤は長期的にはなくなってしまう。しかし、企業はすべて利潤を生み出せないという事実はない。マルクスはその理由を資本家の労働者からの搾取に見いだしたが(その差分が利潤になっているという主張)、シュンペーターはそれを理論的に否定した。
シュンペーターは「イノベーション」(革新)をその理由に挙げたが、岩井氏はこの理論を動学モデルとして理解し再構築する。そして、岩井氏の「シュンペーター経済動学」のイノベーションの解釈は、絶えず生み出される「差異」にこそその本質があると結論づける。
動学的に差異を生み出し、差異によって動学的に利潤が永続する。差異が生み出され続けることによって、悲惨な長期的利潤ゼロの状況に陥ることから免れている。つまり、資本主義の本質は差異の絶え間ない生産とその動学的な作用である、と。
その自身の資本主義論を説明するために、岩井氏はシェイクスピアの『ヴェニスの商人』が一例として題材に使えそうだと考えた。しかし、その直感は、意外な形で裏切られることになる。
『ヴェニスの商人の資本論』
『ヴェニスの商人』が岩井氏の資本主義論の一例として使えるのは当然であった。イノベーションがもたらす差異を、遠隔地貿易の動機となる価格差(異なるコミュニティー=市場での価値形態の違い)に置き換えれば、理論的には同型であるのだから、成り立つのは必然だ。とくに理論家であれば、それに気づくのはたやすいことだろう。
しかし、岩井氏が理論家として非凡なところは、その理論的な同型性を見いだすに及び『ヴェニスの商人』の作品自体がすでに岩井氏がシュンペーターから読み取った資本主義論を解いてしまっている、と確信したところにある。
自身は単にそれを掘り起こしているだけだ、そのような感覚にとらわれ続けたという。このエピソードは、最近ではトマ・ピケティの『ゴリオ爺さん』にも通じるところだろう。
資本主義、貨幣の最も本質的なところが、歴史的な名著の物語が象徴するものとして解説されるという、世にも不思議な経済学的著作『ヴェニスの商人の資本論』(1985年)がこうして誕生する。そしてこれは、岩井氏の日本語での初めての出版でもあった。
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