ただそれは、論文の量産を宿命づけられた学者の出世プロセスにとっては、とてつもなく高いリスクを伴う選択でもあった。
とくにこの時期は、宇沢弘文の姿がよく脳裏に浮かんでいたのではないだろうか。
「神の見えざる手は存在しない」という経済学の構築へ
「神の見えざる手」、専門的には新古典派経済学の「一般均衡理論」に代わる新たな市場観を理論化するにあたり、岩井氏は自身が考えてきた「予想の誤り」の考察が、クヌート・ヴィクセルの「不均衡累積過程理論」の再発見であることにある日気づく。
総需要と総供給が均衡していない(どちらかが多い不均衡な)場合、価格は均衡せずエレベーターのように(累積的に)推移していく――。
総需要と総供給は、新古典派のモデル(セーの法則、物々交換の原理)の前提においては均衡するのが常態であるが、貨幣経済の前提を入れると、たちまちそれは不安定になってしまうことはケインズも指摘している(貨幣需要の分だけ総需要が減るため)。
ということは、新古典派の一般均衡理論は現代の経済においては実際的でないか、あるいは非常に限られたケースでしか機能しないのではないか。そして、それでも市場価格が均衡して決まる、その要因は何なのか――。
そこに及んで、岩井氏は、ヴィクセルの「不均衡累積過程理論」とケインズの「有効需要原理」を接合することを思いつく。
テクニカルな説明は最小限にとどめるが、まずヴィクセルの累積過程論を現代的な数理経済的前提に基づいて修正し、ケインズが『一般理論』でヴィクセルの前提を理論的背景として踏襲していることを確認しつつ、新古典派の理論体系がケインズの“一般理論”の特殊ケース(不確実性がなく、流動性選好が十分に低く、総需要と総供給が等しい場合)なのだというケインズの真意を見いだす。
さらにケインズは、新古典派の依拠する処方箋(合理的な自由放任主義)がいかにヴィクセルの累積過程を伴う不安定をもたらすかを指摘しながらも、返す刀で、“悲惨“である不均衡累積過程は運命的必然などではなく止められるべきものだとヴィクセル派の経済学者らの運命論を牽制。
その安定のための市場の均衡化の処方箋は、「不合理的な振る舞い」「粘着性」「ノイズ」といった合理的でないもの「こそ」が担っているとケインズが示唆していることを岩井氏は明らかにする。
それらを数理的な基礎付けで統一的に理論化したことが岩井氏の画期的な功績だが、その実現にあたって、ミクロの不均衡な振る舞いがマクロ的な統計バランスの均衡をもたらしえること(岩井氏曰く“蚊柱理論”)、また予想される新古典派からの反論に即して、マクロ的な統計バランスを今度はミクロ的な不均衡として確率的に分解してみることで、長期においても新古典派経済学の均衡は実現しない(つまりギャップが永続する)可能性を示した。
とくに最後の功績は、ヴィクセルとケインズすら想定していない、岩井氏独自による新古典派批判の理論的決定打であり、のちにジョージ・アカロフから激賞されている。
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