そのようにマルクスが無意識にも自身の体系を崩壊させるプロセスを理論的に精緻にたどり、その崩壊過程が「貨幣の自己循環論法」によってもたらされることを明快に論証することによって、いわば“背理法”的に貨幣の自己循環論的機能を証明したのである。
自己循環論は、岩井氏の最初の論文の重要アイデア(静態的序数効用つまり「入れ子構造」)にも通じるところがある。また、カリフォルニア大学バークレー校時代に読んだ、「クルト・ゲーデルの不完全性定理」にも通じるものだ。ガモフの無限大の概念と併せて、岩井氏の論証の特徴的な武器となる。
このような貨幣の性質から、貨幣の本来的な不安定性を示し、貨幣が受け入れられなくなったカタストロフとしての超インフレこそが資本主義の真の危機だと結論づける。それは、「恐慌」こそが資本主義の危機であるという古典派やマルクス経済学の結論を転換するものであった。
そしてこの『貨幣論』が、最も知られる岩井氏の仕事となる。また、「日の下に新きものなし」ということなのだろうか、仮想通貨に関しての理論的考察もこの頃にすでに先行的になされている。
会社統治論としての『会社は誰のものか』
ケインズ経済学に加えて経済学全体の基礎的部分の“図鑑”を編纂し終えた岩井氏は、いくつかの偶然から、「会社」に注目することになる。理論の世界の住人であった岩井氏らしからぬ世俗感ではあるが、その論考には氏の理論家らしいまなざしが随所に見られ、そのことにより非常にユニークな法人論につながっている。
経済学的、資本論的に言えば、会社は資本家の所有物である。実際的にはどうかという見方はあるにしろ、とくに欧米では建前的にも実際的にも基本的にはその原則が強く意識されている。
しかし、日本ではとくに顕著だが、会社が資本家の所有物とは思えない現象が頻繁に見られる。そのギャップはいったいどこから来ているのだろうか――。
資本の持ち合い構造という一般的な見方に加え、岩井氏は契約法の大原則「自己契約の不可能性」から、自己を所有するという「入れ子」を発見する。「契約」は自分と相手を縛るものである。資本家と経営者、経営者と労働者の関係性には基本的に契約が存在する。
しかし、資本の持ち合いにより資本家の軛(くびき)から逃れた経営者は、もちろんそれでも法人と経営者の契約関係がある。しかしこの場合、法人と経営者はほぼ同一となってしまう。労働組合があれば、労働者との契約関係が自らを縛るものになるが、労働組合を無力化できたとすれば、法人と経営者は実際的に等しい状態となる。
そのときに、法人と経営者の(義務を伴う)契約関係は可能であるかどうか。それは「自己契約」となり、経営者はいつでも法人として自らの契約を変更することができるがゆえに、もはや契約の意味を持たなくなる――。
当時の世情では、M&Aが盛んになっており、会社は経営者のものでなく株主のものだ、いや、会社は社員こそのものである、という議論が延々と繰り広げられている状況であったが、岩井氏の論考はその不毛な繰り返しを止めるに十分なインパクトを持った。
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