そしてこの『ラ・トスカ』は、当時のヨーロッパに強烈な印象を与えただけでなく、遙か波濤を超え、日本の芸能にも大きな影響を与えたのである。というのは、この『ラ・トスカ』の内容を知ったジャーナリストにして劇作家である福地桜痴が、明治以降最高最大の噺家・三遊亭円朝に筋書きを伝え、その円朝は、原作初演の僅か2年後の1889年(明治22年)、『ラ・トスカ』をもとにした長編噺(落語)『錦の舞衣(まいぎぬ)(別名:名人くらべ)』を演じ、また 2年後の1891年(明治24年)に都新聞でその速記録を連載したのである(筆者の所持する角川書店版の円朝全集は、新聞連載の詳細は記載されているのだが、高座での初演は記載されておらず、1889年初演というのは信憑性が万全でないネット情報によっている)。
プッチーニの『トスカ』の初演は1900年だったので、姉妹作品たる円朝の噺はそれに先んずること実に11年ということになる。(ちなみに1891年7月、やはり桜痴の発案で、歌舞伎としても『ラ・トスカ』を原作とした『舞扇恨之刃(まいおうぎうらみのやえば)』が上演されている。)
『ラ・トスカ』を日本に置き換えた『錦の舞衣』
『錦の舞衣』は舞台を江戸後期、大塩平八郎の乱の時代に移している。別題が『名人くらべ』というくらいなので、前半は別に荻江節の名人が登場するのだが、後半部分に登場する名人こそ、『ラ・トスカ』の世界の住人達だ。
踊りの師匠お須賀(おすが=トスカ)と絵師・狩野毬信(かのうまりのぶ=カヴァラドッシ)である。絵師・狩野毬信は、恋心を抱いたお須賀に静御前の舞の絵を贈る。しかし舞の名人であるお須賀は、絵の中で舞う静御前の左手がまずい、それがうまく描けるようになったら夫婦になると言ってのける。それに一念発起した毬信は6年の間、京都で修業をし直し、江戸に戻ってくる。お須賀も描き直された静御前の絵を見て、名人となった毬信の腕と心意気に惚れこみ、2人は夫婦になる。
毬信は次第に評判が高くなり、遂に越前様から谷中南泉寺の欄間に天人の絵を描くよう命じられる。そこで絵を描いているさ中、大塩平八郎の乱を逃れはるばる江戸までやってきた、一味の若侍が逃げ込んでくる。京都で修業の最中、大塩平八郎とも親交があった狩野は義侠心から彼をかくまった上、女装した彼を自分の別宅に逃がしてやる。
しかしかねてからお須賀に惚れこんでいた同心・金谷藤太郎(=スカルピア)は毬信が若侍をかくまっていることを見破り、ここぞとばかりにお須賀を炊きつけた。狩野の浮気と勘違いしたお須賀は狂乱して別宅に乗り込んでいくが、その痴話喧嘩に乗じた金谷の部下に踏み込まれ、若侍は自害、狩野は捕縛されてしまう。自分と関係を持てば狩野を放免してやると執拗に金谷に迫られ、お須賀は遂に金谷に体を許してしまう。
その直後に毬信は拷問のため獄死。すべては金谷の奸計であったとようやく悟ったお須賀は、金谷の妾になると見せかけ、金谷を呼び出して殺害し、首をはねる。そして毬信の墓前に金谷の首を供え、そこで喉をついて自害する。
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