そしてこの『ラ・トスカ』は、当時のヨーロッパに強烈な印象を与えただけでなく、遙か波濤を超え、日本の芸能にも大きな影響を与えたのである。というのは、この『ラ・トスカ』の内容を知ったジャーナリストにして劇作家である福地桜痴が、明治以降最高最大の噺家・三遊亭円朝に筋書きを伝え、その円朝は、原作初演の僅か2年後の1889年(明治22年)、『ラ・トスカ』をもとにした長編噺(落語)『錦の舞衣(まいぎぬ)(別名:名人くらべ)』を演じ、また 2年後の1891年(明治24年)に都新聞でその速記録を連載したのである(筆者の所持する角川書店版の円朝全集は、新聞連載の詳細は記載されているのだが、高座での初演は記載されておらず、1889年初演というのは信憑性が万全でないネット情報によっている)。
プッチーニの『トスカ』の初演は1900年だったので、姉妹作品たる円朝の噺はそれに先んずること実に11年ということになる。(ちなみに1891年7月、やはり桜痴の発案で、歌舞伎としても『ラ・トスカ』を原作とした『舞扇恨之刃(まいおうぎうらみのやえば)』が上演されている。)
『ラ・トスカ』を日本に置き換えた『錦の舞衣』
『錦の舞衣』は舞台を江戸後期、大塩平八郎の乱の時代に移している。別題が『名人くらべ』というくらいなので、前半は別に荻江節の名人が登場するのだが、後半部分に登場する名人こそ、『ラ・トスカ』の世界の住人達だ。
この記事は有料会員限定です
残り 1790文字
