筆者が「東京落語で1つ選べ」と言われたら三代目古今亭志ん朝の「柳田格之進」を挙げる。武士の気高い矜持と市井の町人の誠実がギリギリのところで切り結ぶ美しい話だ。
この噺はいわゆる「釈ネタ(講釈から来た噺)」だ。父格之進の名誉のために苦界に身を沈める覚悟をする娘の潔さ、身の潔白が明らかになった柳田格之進が両替商の万屋源兵衛と番頭徳兵衛主従を許すまでの葛藤、など聞きどころは多い。
小林信彦氏も志ん朝のこの噺を絶品とたたえている。とくに「着物の描写」の美しさに着目しているが、随所に「研ぎ澄まされた話芸の極み」を感じる。
ただこの噺はよく聞いてみると、ストーリーにいくつか矛盾点がある。志ん生、志ん朝の系統と柳家さん喬などの系統では少し筋が違うのだが、最大の矛盾は、柳田格之進にあらぬ嫌疑をかけた揚げ句、娘を身売りさせてしまうという大禍をもたらした番頭徳兵衛が、その娘と一緒になる、という大団円だ。いくら改心して詫びたからと言って、父娘の運命を大きく変えてしまった元凶である番頭徳兵衛を、許すことなどできるのか?
やっぱり僕はいい話が好き
花緑の「柳田格之進」は柳家さん喬などの系統だが、この部分に新しい解釈を加えて、ストーリーを矛盾ないものに仕立て直している。実際の噺を聞いていただきたいので詳しく説明はしないが、二番番頭というもう1人の登場人物を作ることで、噺を丸く収めているのだ。
「落語プロデューサーの京須偕充先生に“人物を増やす、足し算するというのは、危険だよ”って言われた。でも僕の噺を聞いて“あの1人を持つことによって、双方万事丸く収まるようになった、いちばんいい解決策だ”とおっしゃっていただいた。やっぱり僕はいい話が好きなので(笑)」
花緑は、こういう形で古典落語に手を加えることがある。軽々にこういうことをすると噺の世界が台無しになることがあるが、花緑は噺の隅々まで理解してから手を入れているので、その危険性は少ない。演出家としての確かな目があるのだ。
さらにその前提として、花緑はストーリーテラーとしてのしっかりした技術がある。先人が名演を残した「柳田格之進」というレベルの高い噺をしっかり聞かせる「腕」があって、初めて「演出」も生きてくるのだ。
「祖父も言っていました。“落語は、だれに教わったから、こうだっていうのはダメだ。やる以上は自分の責任を持ってやれ”ってね」
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