近鉄球団消滅15年でプロ野球は何が変わったか 球界分裂騒動で近鉄ファンは置き去りに…

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ところが、消えたはずの売却問題は、“球団合併”に形を変えた。6月13日、近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが合併することで合意したとの発表が行われた。6月21日の実行委員会、7月のオーナー会議で承認されれば、パ・リーグは5球団になる。近鉄の選手だけでなく、球界全体を震撼させる発表だった。

足高が言う。

「最後は経営者が野球を好きか、嫌いかということじゃないですか。もちろん、近鉄グループにはたくさんの近鉄バファローズファンがいました。試合の勝ち負けが翌日の職場で必ず話題に上がったもんです。鉄道の車掌や切符を切る係の人が『昨日はおしかったなあ』『礒部が打ったら勝っとったのになあ』と。でも、勝っているときはいいけど、負けがこんでくるとお客さんの足が遠のいてしまう。そこはシビアやったね。経営側からしたら、厳しかった」

大阪ドーム元年の1997年は、年間の観客数が180万人を超えた。優勝した2001年は約159万人を集めたが、120万人を割る年もあった。

加速する「10球団での1リーグ制」の動き

6月30日、ライブドアの社長(当時)だった堀江貴文が近鉄の買収に名乗りを上げた。だが、球界再編の波は激しく、急だった。一部の球団オーナーが主導して、水面下で「10球団での1リーグ制」に舵を切っていく。

7月のオーナー会議で、近鉄・オリックスの合併が承認されたが、西武の堤オーナーがもうひとつの合併話が進行中であることを明らかにした。そのため、メディアでも10球団での1リーグ制への移行が取りざたされるようになった。

当時は、まだ巨人が絶大な人気を誇っていた。巨人戦の中継はテレビ局にとって、「ドル箱」だった。そのおこぼれにあずかりたいという思惑がパ・リーグの球団にはあった。

巨人の渡辺オーナーの発言が飛び出したのは、7月8日。オーナー側との対話を求める日本プロ野球選手会会長の古田敦也(現・野球解説者・タレント)に対してこう言い放った。

「分をわきまえないといかんよ。たかが選手が。たかがと言っても、立派な選手もいるけどね。スト? どうぞやったらいい」

この発言が波紋を大きく広げることになる。

近鉄の選手会長だった礒部公一(現・野球解説者)は、シーズンはじめ、事の重大さに気づいていなかった。

「ネーミングライツが話題になったときも、オリックスの二軍が『サーパス』になったみたいなものかなと思っていました。親会社が替わることはいままで何度もあったことは知っていましたし」

しかし、身売りではなく、合併という流れになった。2球団がひとつになれば、当然、選手もスタッフも働き場所を失ってしまう。

礒部が言う。

「球団がなくなってしまうことは許せなかった。それも、12球団を10球団に減らそうという動きでしたから。選手会の立場で関西の企業に『買ってもらえませんか』と頭を下げたこともあります。どうにかして、合併だけは避けたかった」

しかし、ネーミングライツから始まった騒動は、当事者の手を離れていった。

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