売り切れ必至「バゲット」を作る女性職人の気概 激戦区で生き残る店には理由がある

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ところが、映像関係の広告の仕事をしていた夫が、「一緒にやろう」と言い出す。開業を予定していた2000年代の終わり頃は、映像技術がアナログからデジタルへの移行期で、機材一式を買い替えて続けるか、辞めるかと決断する時期だったのだ。

夫というパートナーを得て、また家計を店でまかなう責任が生まれたこともあり、祥子氏は数十種類のパンを置く本格的な店を開く決断をしたのである。すぐにライバル店が多く出現する事態に見舞われたにもかかわらず、口コミで着実に客を増やし人気店となったのは、十分に準備をした成果と言える。

好きなことに没頭する毎日は「ノーストレス」

体力的な不安はないのか祥子氏に聞くと、自宅からの片道30分を毎日歩いて往復するほか、月に1回マッサージに通い、体のメンテナンスを行っているという。何より好きなことに没頭する毎日で「ノーストレス」であることが、活力の源になっている。今後は、できるだけ安全性が高い材料を使い、健康的なパンを売ることに力を入れたいと話す。

店内にはクッキーなど焼き菓子も並ぶ(撮影:吉濱篤志)

何よりの手ごたえは「おいしかった」と言われること。「今まで働いた店では、店頭に立つ機会がなかったので気がつかなかったのですが、日本人でも『おいしかった』とか『ごちそうさま』と言ってくださる方は多いのですね。それは意外でうれしかった手応えです」と言う。毎日、オーブンから出したパンが、「焼き色がきれいについて、試しに割ったらパカンときれいに割れたときがうれしい」と祥子氏。その品質の高さが、町に欠かせないパン屋としたのだろう。

日本のパン職人たちが、初めて本物のバゲットが作られる場面を目にしたのは、1954年。「パンの神様」と異名を持つフランスの国立製粉学校のレイモン・カルヴェル教授が来日し、実演した折だ。見学者の中にいたドンクの藤井幸男社長が、1965年に来日したフィリップ・ビゴ氏を雇って、フランスパンブームを起こした。

あれから約半世紀。ビゴ氏から学んだ弟子たちに加え、渡仏した人も増え、本場の技術を継承していった結果、日本はヨーロッパの人たちも認めるハード系パンを作る国として知られるようになった。日本は、すっかり世界のパン文化の担い手の一翼を担う国に成長したのである。

阿古 真理 作家・生活史研究家

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あこ まり / Mari Aco

1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに、ルポを執筆。著書に『『平成・令和 食ブーム総ざらい』(集英社インターナショナル)』『日本外食全史』(亜紀書房)『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた』(幻冬舎)など。

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