売り切れ必至「バゲット」を作る女性職人の気概 激戦区で生き残る店には理由がある

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地域的特性もありそうだ。武蔵境は文教地区である。近くには国際基督教大学(ICU)や日本医科大学、日本獣医生命科学大学、亜細亜大学などの大学が多い。顧客には、「ICUの先生方や職員さんが、口コミで紹介してくださったりしています。隣の獣医大の先生にもお世話になっています。西洋人の方も多いですね」と祥子氏は言う。ヨーロッパになじみがある人が、買っているのかもしれない。

武蔵境駅から徒歩数分にあるパサージュ・ア・ニヴォの店舗。取材中は男女問わず幅広い客層が訪れていた(撮影:吉濱篤志)

また、パン屋がたくさんあるので、柔らかいパンを求める人は別の店へ行き、パサージュ・ア・ニヴォに来るのは、ハード系パンが好きな人たちと、すみ分けができているのだろう。しかし、大和夫妻はその住み分けを狙って、この場所にパン屋を開いたわけではない。

この場所を選んだのは、三鷹にある自宅から近かったからだ。開店の前後に、ライバル店が増えたのだと祥子氏は言う。ハード系パン中心の店にしたのは、祥子氏が好きだからである。

フランス旅行中に「修行」

祥子氏はもともと、インテリアコーディネーターだった。しかし30歳だった2000年代初頭、当時住んでいた町の近くで、長時間発酵させたと思われるおいしいバゲットに出合ったことが、パンにハマるきっかけだった。

その頃はちょうど、東京にハード系パンを売りにするパン屋が、次々と誕生した時期である。ポールやメゾン・カイザーといったフランスから出店するチェーン店や、フランスで修業してきた人が、フランス人顔負けの本格派のバゲットやクロワッサンを看板商品とするパン屋を開くようになっていた。そういう店が増えてきたことが、やがて始まるパンブームの土台を作ったのである。

勤めていた会社が民事再生法を申請したことなどから会社を辞めた祥子氏は、パン屋開業を目指して、まずはアルバイトとしてパン屋の厨房に入り修業を始めた。ポールに1年半、サンジェルマンに2~3年。その後、井の頭線・久我山の人気店、ブーランジュリーラパンに社員として入り、1年半かけてパンの作り方を一通り学んだ。

その後、フランスへ旅行。パリ郊外のアントニーに住む日本人の友人に「1週間、パン屋さん巡りにつき合って」と頼んだところ、「厨房に入ったほうがいいんじゃない?」と言われる。そして、友人のフランス人の夫が、行きつけのパン屋で厨房に入れてもえるよう、交渉してくれたのだ。その店のパンやお菓子は素朴なものだったが、実は祥子氏、泊めてもらっていた友人宅との往復の道中、スタイリッシュな生ケーキも置くパン屋が気になっていた。

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