売り切れ必至「バゲット」を作る女性職人の気概 激戦区で生き残る店には理由がある

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「もっと学びたい」と再渡仏し、観光ビザで滞在できる3カ月間いっぱいの日程を、今度はその店に入れてもらうことができた。毎日厨房で技術を学び、レシピも一通り教わる。同店のオーナーシェフは、パン職人であるだけでなく、パティシエでもショコラティエでもあり、学ぶことはたくさんあった。祥子氏は、同時に語学学校にも通っていたが、まだ語学力が追いつかないため、厨房で気になる単語はメモし、帰宅すると友人に意味を教わった。

祥子氏が短期間とはいえ、簡単にフランスのパン屋で修業ができたのは、この半世紀、たくさんの日本人職人が渡仏し、修業してきた実績があったからだ。

「日本人だから研修生として入れた」

まず、料理人たちが次々と渡仏したのが、1960~1970年代。帰国後、彼らが開いた店が、日本にフランス料理ブームを起こした。キハチやオテル・ドゥ・ミクニ、クイーン・アリスといった名店は、この頃に渡仏した料理人たちが開いた店である。フランスの郷土菓子を発掘したパティシエが開いた、オーボンヴュータンも同時期の渡仏である。その後、パン職人たちも渡仏して修業。

熱心で有能な職人たちが営々と積み上げてきた実績が、祥子氏の道を開いた。祥子氏は帰国後、鹿児島県の高級リゾートホテル「天空の森」のフランスパンフェアのために来日したオーナーを、手伝いに行ったことがある。また、フランスに再訪して会ったこともある。上達したフランス語でオーナーと話した折、こう言われたという。

「君が日本人だから研修生として入れたんだよ。日本人は真面目だろう。実際に、君はずっとメモを取っていた」。実は厨房にはカメラが設置してあり、オーナーはカメラの映像を通して祥子氏の様子を見ていた。3カ月しかない修業期間で吸収するため、毎日必死で学んだことをオーナーも知っていたのだ。

ブーランジュリーラパンで、日本で比較的小さな店でパン屋を運営するノウハウと技術的な土台を学んだ祥子氏は、フランスで技術を中心に身に着けた。冷蔵庫で一晩寝かせて長時間発酵にした後焼くことで、時間を効率的に使い、旨味をしっかり出すバゲットの作り方。こね上がりや焼き上げのタイミングの見極め方。酢ではなくディジョンマスタードというマスタードを使う、コクがあるマヨネーズの作り方も学んだ。

さらに帰国後、商圏を見極めるために、三鷹のリトル・マーメイドで働いた。そこまでしても、当初は1人でできることは限りがあるからと、小さな店で、バゲットとクロワッサンだけに絞って売るつもりでいた。

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