荒川、台風19号通過前後の「激流」に感じた恐怖 最悪の事態こそ免れたが今後も油断は大敵だ
元国土交通省河川局長の竹村公太郎氏は、東洋経済オンラインでかつて配信した2本の記事、「堤防決壊はあなたのすぐ近くでも起こりうる」(2015年9月15日配信、竹村氏寄稿)と「日本の河川堤防は集中豪雨に耐えられない」(2016年6月21日配信、竹村氏へのインタビュー記事)において、日本各地の堤防は江戸時代に作られたものが多く、どこでも決壊が起こりうると指摘している。
詳しくは2本の記事を読んでいただきたいが、ポイントをまとめれば、江戸時代に各地で堤防が作られた要因は、戦乱が落ち着いて平和になった後に稲作を進めるなどの目的があったからだ。ただ、各地の河川はもともと下流に行くに従って複雑に分岐していたため、それを強引に1本の堤防の中に押し込めていったという歴史がある。
大型機械のない人力でつくられた堤防が少なくなく、明治以降の日本政府はそれを引き継いだが、今回のような猛烈な大雨が降った場合に耐えられず、堤防が決壊する例は後を絶たない。少し前になるが2015年9月に、首都圏にも流れ込む一級河川である鬼怒川が破堤した茨城県常総市で、濁流が激しく家々を飲み込んだ光景を記憶している人もいるだろう。
気になって国土交通省荒川下流河川事務所のホームページなどから荒川の歴史を調べてみた。
現在の隅田川はかつての荒川下流部にあたり、その沿川では、江戸時代に頻繁に洪水が発生し、明治時代になっても洪水が頻発した。明治元(1868)~明治43(1910)年の間に、床上浸水などの被害をもたらした洪水は10回以上。中でも明治43年の洪水は甚大な被害をもたらした。
洪水対策で全長22kmに及ぶ人工の川がつくられた
東京では、それまで農地だった土地の利用が工場や住宅地に変化したことによって、洪水の被害が深刻化。荒川の洪水対応能力を向上させるために、全長22kmに及ぶ人工の川である「荒川放水路」の基本計画が策定された。これが今の東京を通る荒川下流部に当たる。
東京の下町を水害から守る抜本策として、荒川放水路事業は明治44(1911)年に着手され、掘削した土砂の総量が東京ドーム18 杯分、約1300世帯が移転を余儀なくされたほどの大規模工事によって、昭和5(1930)年に荒川放水路は完成した。20年近い歳月をかけた巨大プロジェクトだったわけだ。途中には大正12(1923)年に関東大震災が発生。当時を思うと、これをやり遂げるには関係者の大変な努力があっただろう。
荒川放水路が完成して以来80 有余年の間、荒川放水路の堤防が決壊したことはない。今回の台風19号による猛烈な雨も、いざというときの河川敷部分も使って大量の水を下流に流し、災厄を防いでくれた。12日夜には荒川から隅田川に水が流れないように、東京都北区にある岩淵水門が閉じられた。ツイッターでは「岩淵水門が閉じたが、荒川下流は大丈夫なのか?」とのつぶやきも多数見られたが、隅田川にそのまま水を流し続けていたら別の被害を招いていたかもしれない。
荒川流域だけでなく隅田川流域が守られたのも、先人たちの将来を見据えた取り組みがあってこそ、と言えるだろう。とはいえ、この先も荒川の堤防が壊れないという保証は何もない。基本設計は100年以上前につくられたものだ。