しかし、僕たちに少し下の年代が子どもの頃にどんな遊びをしていたか、おぼろげにしかわからないように、上や下の世代に僕たちの世代がどのような経験をしていたのか、わかるはずもない。それこそ上の年代からすれば、もしかしたら僕たちは子どもの頃から携帯電話を持っていたと誤解されているのかもしれないし、下の年代からは電話は壁掛けで、交換所に「10番お願いします」などと言っていたと思われているかもしれない。
そしてなにより、テクノロジーという視点においては、僕たちの年代を境に、さまざまなことが大きく変化した。前述のとおり、僕たちが空き地や路上を追い出されて、テレビゲームをあてがわれたという変化は、子どもの遊びにとっての大きな変化である。また、僕たちが20歳前後の頃に、日本でもインターネットが一般の人たちにも使われ始めた。これもとてつもなく大きな変化である。
アイデンティティを理解されなくなってきているのか?
テクノロジーの発展に伴うさまざまな変化の中で、僕たちは別の世代にアイデンティティを理解されない世代になりつつあるのではないかという懸念が僕の中にあった。
これまで社会から「若者」として扱われ続け、いつまでもモラトリアムの中に捨て置かれた僕たちが、現代の若者世代の活躍により、オジサンであると自他ともに自覚させられていく変化の中で、僕たち自身も、自分たちの出自を忘れつつある。そんな気がしていた。
僕たちは決して自分ひとりではなく、社会の中に生きている。周囲に認識されることによって初めて、自分のアイデンティティは充足させられる。しかし、不況の中でいつまでも社会的役割を与えられない僕たちは、いつまでも若者と呼ばれることを受け入れるしかなかった。そのような状況の中で、僕たちはいつまでも自分自身を定義づけることができず、社会の中で浮いている、居場所のない現状に苦しめられてきた。
自分たちよりも10年以上前の世代であれば、安定した経済成長の中で、会社に居場所を求めればよかった。逆に10年以上後の世代であれば、ネットなどを通じて、個人の関係性の中に居場所を求めることができる。しかし僕らはその間で、会社に頼ることもできず、かと言ってネットにも頼ることができなかった。
だからこそ今回、『アラフォー男子の憂鬱』という本の一部として、文章として書き記すことができたことには、大きな意味があると考えている。
僕たちはアラフォーである。もう立派な「オジサン」だ。オジサンがこれからの人生を歩むために、これまでの僕たちをあらためて俯瞰するための本。ほかの著者にもいろいろな思いはあるだろうが、僕はこの本をそういう位置づけとして考えている。
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