しかし、僕が中学生になる頃には、みんな塾に行くのが当たり前になった。約束なしに遊ぶことはほとんどなくなり、ゲームも1人でプレーするしかなくなってしまった。このように、僕たちはぜいたくをしたどころか、時間が経つにつれ遊びの場所や相手を、どんどん奪われていったのである。
一方で、確かにぜいたくをしていた人がいる。それは僕たちではなく、僕たちから遊び場所を取り上げ、テレビゲームなどを買い与えた年長者である。
消費という側面で考えれば、この当時に家や車を買い、子どもたちにテレビゲームなどの高価なおもちゃを買い与えることによって自尊心を満足させていたのは、将来、僕たちを「お前たちは子どもの頃にぜいたくをしてた」と批判することになる、当の高齢者たちである。
僕たちにとっては遊び場であった空き地は、彼らにとっては活用されない遊休地であり、それを宅地として販売することによりおカネに変えた。道路も車の通り道として積極的に活用されていった。
そうして生まれたおカネのごく一部が、僕たちの「ぜいたく」としてテレビゲームのソフトなどに化けたが、そうしたことも含めて、子どもにおもちゃを与えたり、塾に行かせることさえも、親たちが親としての自尊心を高めるための行為であった。
テクノロジーの変化の中で育った世代
要は、産業界にとっては僕たちの両親が消費のターゲットだったのであり、僕たちはただ一方的に巻き込まれたのである。そして今もなお、高齢者たちの自尊心を満足させるために、過去の消費は「僕たちのぜいたく」というねじれた形で再利用され、僕たちは過去のぜいたくさも原罪であるかのように、背負わされ続けている。過去のぜいたくなど、現在の不遇の穴埋めになどなるわけもないのに……。
『アラフォー男子の憂鬱』の中で、僕はテレビゲームやインターネットを中心としたテクノロジーの変化を述べている。
LSIゲームからファミコン。そしてパソコンがインターネットにつながり、やがて出会いを求める人たちのツールになるまで。僕たちはこれまでにない圧倒的に大きなテクノロジーの変化の中で、自分たちのアイデンティティを育んでいった。
だから、そこに書かれていることは、僕たちと同年代が見れば「あー、あるある。そうだった」と膝を打つ話である。しかし、それはとても当たり前すぎて「そうだけど、だからなに?」としか思われないのかもしれない。
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