1990年代半ば、東京の東中野で、1人のシングルマザーが“共同子育て”の試みを始めました。「いろいろな人と子どもを育てられたら、子どもも大人も楽しいんじゃないか」と考えた当時23歳の加納穂子(ほこ)さんが、ビラをまいて「共同保育人」を募り、集まった10人ほどの人々でシェアハウスのようなもの――“沈没家族”と命名――を始めたのです。
再び脚光を浴びる“沈没家族”
新しい家族のあり方として注目を集め、当時は新聞やテレビなどでよく取り上げられたそうですが、最近また、脚光を浴びることに。2017年に穂子さんの息子、加納土(つち)さんがこの共同生活を捉えなおすドキュメンタリー映画『沈没家族』を制作し、いま現在もあちこちのミニシアターで上映されています。
血縁でもなんでもない雑多な人々がわいわいと集まり、“よその子”の面倒を見ながら生活を共にするという「沈没家族」。「楽しそう」と思う人と「何だか心配」と思う人と、両方いるのでは。何しろそんな家族を見たことがないので想像ができない、という人も多いでしょう。
「沈没家族」で暮らした母子は3組いたそうですが、子どもたちはこの生活を、本音でどう思っていたのでしょうか。いわゆる「ふつうの家庭」とはまったく異なる環境で困ることはなかったのか? 今回、4歳から10歳までの6年間を「沈没家族」で過ごした萌(めぐむ)さん(27)に、当時感じたことや、今思うことを、聞かせてもらいました。
両親は萌さんが4歳のときに離婚しました。この頃、母親のしのぶさん(カウンセラーの高橋ライチさん)が加納穂子さんと知り合い、共同保育の試みに共感して一緒に住むことを提案。沈没家族はこれを機に、手狭になっていたアパートを離れ、3階一戸建てに移住しました(“沈没ハウス”と命名された)。賃料約4万6千円の物件です。
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