1999年が映画の「当たり年」と断言できるワケ 「マトリックス」「ファイト・クラブ」豊作揃い
――まず直球の質問。なぜ39年や69年でなく99年なのか?
39年も69年もすごい年だ。でも99年は、歴史の積み重ねと未来の予感がごっちゃになった絶頂期のような気がする。ハリウッドではまだ大作が幅を利かせていたけれど、観客はだるいシリーズものやテレビの焼き直しに飽きていた。悪い例が『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』(97年)だ。大手のスタジオはインディーズの作品に押されていた。
99年になるとスタジオはウォシャウスキー兄弟(当時は姉妹に性転換する前)の『マトリックス』やデービッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』、スタンリー・キューブリックの遺作となった『アイズ・ワイド・シャット』などの革新的で派手な作品に大スターを起用して、巨額の製作費を投じた。これは39年の傾向に似ている。
一方で、69年のように若くて無名な監督にも目を向けた。その結果がデービッド・O・ラッセルの『スリー・キングス』、ソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』、ジョーンズの『マルコヴィッチの穴』、アレクサンダー・ペインの『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』だ。
しかも99年には文化や社会の問題、例えばテクノロジーがもたらす興奮と恐怖やアイデンティティーの追求、性同一性障害の苦悩といった問題を深く掘り下げる作品があった。『ファイト・クラブ』で打ちのめされて、キンバリー・ピアースの『ボーイズ・ドント・クライ』で苦痛を味わった人もいるだろう。でも、どれもが個人としての観客に訴え掛けていた。
21世紀とコンピューターの急激な普及
――あなたは99年を「文化の断絶(カルチャー・ラプチャー)の年」と呼ぶ。21世紀が目前だったことと関係があるのか。
90年代半ばから企画が始まった作品もあるから、一概にそうは言えない。でも、たまたまこうした作品が集まっただけとも思わない。90年代の最後の数年は好景気だったけれど、インターネットや24時間ニュースの普及で、世界がひどく加速しているように感じたものだ。
だから人々は「待てよ、自分は一体誰だ? 自分の居場所はどこだ?」と考えるようになった。21世紀を前にして、みんな無意識に気持ちを整理する節目としたのだろう。
――そういう流れは見た当時に感じたのか、それとも大量の映画を見直してから?
ホワイトカラーの不満を描いた映画を数えてみる必要はなかった。このテーマは企業に反旗を翻す『リストラ・マン』だけでなく、『マトリックス』『ファイト・クラブ』『アメリカン・ビューティー』にも流れている。『マルコヴィッチの穴』も職場と家を往復する文化から逃げ出そうとしている。ワーキングスペースの共有や自宅勤務ができる現代では過去のことに思えるだろうが、こうした不満は今も共感を呼ぶ。
アイデンティティーについてや、他人になる願望のテーマが多いのにも驚かされる。『マルコヴィッチの穴』はもちろん、『ボーイズ・ドント・クライ』、アンソニー・ミンゲラの『リプリー』、デービッド・クローネンバーグの『イグジステンズ』などだ。たまたま一斉に集まったとは思わない。