編集者は村上さんに
「どうするんや? 漫画描くんか描かへんのか? 描くんやったら、夏に5回の集中連載を用意しておく」
と告げた。
「『ヤングジャンプ』に5回の連載って、ごっついですよね。面白そうだと思い『やります』と答えました。そこが僕の漫画家としてのスタートラインです」
『ヤングジャンプ』本誌に掲載された、5回の短期集中連載の評判はよかった。編集部の中でも村上さんの作品をプッシュしてくれる編集者がいた。
「これは面白い漫画だ。絵はめちゃくちゃだけど、連載すべきだ」
と言ってくれた。
そして正式な連載が始まることになった。
1週間ほぼ漫画のことばかり考える4年間
「『連載が始まるので』と言ってゼミはやめました。迷惑がかかりますからね。学校も休学しました。学籍は置いていたので、漫画家がダメだったらまた戻ればいいやと思っていました」
はたして『ナマケモノが見てた』はヒットし、連載は4年続いた。単行本も全11冊発売された。『ナマケモノが見てた』の連載中に、自主制作の映画サークルを作り活動した。
「最初は文化の潮流を作るんだ!!って言ってたんですけど、集まってくるのはポンコツばっかりでした(笑)。最後は旅行サークルになってました。そのサークルで妻と知り合いました。
週刊漫画誌の連載はすごく疲れました。1週間ほぼ漫画のことばかり考えてました。ギャグって爆発を繰り返しながら推進力を得るエンジンみたいなところがあるんです。毎週毎週爆発を繰り返すうちに、エンジン自体にガタがきて壊れてしまうんです。
あまりに疲れたとき、編集部に『1カ月だけ休みをあげる』って言われて休んだんですけど、休んでも全然リフレッシュできませんでした」
連載が終わったのは25歳のときだった。ちょうどその年に結婚した。
「結婚した瞬間に無職になりました。大学に復学しようと思い、京都にマンションを借りて2人で引っ越しました」
久しぶりに学校に行くと、ゼミの日系3世の先生はアメリカに帰っていた。4年も経っているので、知っている人は誰もいない。経済はもともと苦手だ。すぐに通うのがつらくなった。
「学校に行ってくるわ」
と出かけるのだが、鴨川に行って一日中寝転がって家に帰った。
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