「仕事がなくなりました。子どもは、上の子が小学5年生、下の子が3歳でした。
それまでは大阪に住んでいたんですが、嫁の実家である東広島市に引っ越そうと思いました。たびたび里帰りしていたんですが、帰るたびによくなっていく街でした」
そもそもは単純な田舎町だったが、広島大学が移転してきてからはインフラが整備され始めた。本屋ができ、喫茶店ができ、シネマコンプレックスができた。
発展はしているが、里山としての自然はしっかり残っていて、タヌキ、キツネ、キジなどの動物もいた。
少子高齢化が進む現在の日本で、若年層の人口が増えている珍しい地域だった。
「これは子育てにピッタリな地域だなと思って引っ越しました。大阪に住むより家賃などはずっと安くなりました。
しかしその頃が漫画家としてはいちばん厳しい時代でした。『本当にあった愉快な話』(竹書房)の月1連載しか仕事がない時期がありました」
長いの描いてみてください。ギャグなくていいんで
2007年には、ハローワークに仕事を探しにいった。大学は結局中退だし、漫画家はほぼ職歴として評価されない。40代の村上さんに、仕事はまったくといっていいほど見つからなかった。
「そんな中見つけた仕事が、メダカの選別でした」
東広島市はメダカの生産で有名だ。生まれたてのメダカを選別していく仕事があったので、応募した。
「でも『目が悪いからダメです』って断られました。ああ、ほんとに仕事ないんだなと認識しました。それから各誌に仕事ないですか?と営業をかけました。そんな中拾ってくれたのが、双葉社の『漫画アクション』でした」
『漫画アクション』で始まった『ぎんなん』はあまり人気にはならず2巻で終わってしまった。担当編集者は村上さんに
「今回は終わりますが、村上さん、ストーリー漫画描いてみませんか? 8ページでは描き切れないことがあると思います。長いの描いてみてください。ギャグなくていいんで」
と言った。
「ストーリー漫画を描くなんて考えもしませんでした。ストーリー漫画っていわば、漫画の王道ですよね。そもそも学費を稼ぐために『どうやったらちゃんとした人に勝てるか?』という変則的な形で始めましたから。ストーリー漫画が描けるとも思っていませんでした」
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