「それが全然ないんです。何しろ私たち夫婦の弟みたいなものなので。私たちは彼がいても遠慮なく激しい喧嘩をするし、どっちも彼を味方につけようとする。彼は女性の多い家庭で育っているせいか、私の気持ちを察するのもうまいんですよ。夫の無神経な発言に私が怒ってるときも、彼が空気を読んで場を和ませてくれたり」
そんな関係もあるんだなあと驚いている私をよそにAは続ける。
「そうそう。昨日、サバカレーを作ったんですよ。玉ねぎを炒めて、サバの水煮缶とホールトマト、それにカレー粉なんかを入れて煮込むカレーです。水煮缶だから超楽ちん」
「……それって、おいしいの?」
「おいしい! と、私は思ったんですけど、夫はマズイって言うんですよ。で、そんなこと言うなら自分で作ればって険悪になりかけたところで、居候の彼がおもむろに立ち上がって、みんなの分のお皿を洗い出したんです。あ、ありがとう、とか言って手伝ってるうちに、夫にムッときた気持ちも収まってきて。こういう気の使い方が抜群にうまい子なんで、夫婦喧嘩も前より減りましたね」
しかしここで、ちょっとした疑念が頭をよぎった。
「ねえ、少し気になったんだけど、そんなに気が利く男の子なら、その彼に浮気心が芽生えたりしないの?」
けれどもAは即座にそれを否定した。
「彼はいい子なんだけど私のタイプじゃないし。それに彼も、恋愛があんまり好きじゃなさそうなんですよね」
若者の人間関係は希薄化しているか
なるほど、それを聞いてなんとなく腑に落ちた。恋人を作るという行為に消極的な人は、確かに私の周りにも増えてきている。由々しき若者の恋愛離れと年長者は眉をひそめるかもしれないが、私は必ずしもそれが、若者の人間関係の希薄化に直結するものではないと思う。なぜならA家に居候しているこの男性のように、たとえ恋愛に消極的でも、ほかの思わぬ場所で、人とのつながりを驚くほど濃密に築いているという人が、案外少なくないからだ。
夫婦や恋人、あるいは家族というように、何かしら名前のついた関係性の中に収まると、私たちは安心する。でもそれは、本来なら千差万別であるはずの個々のつながりを既存の枠の中に押し込めることでもある。また自分も相手も、そこから簡単には立ち去れなくすることでもある。だから、安心と引き換えに、多少の窮屈さを引き受ける必要がある。
けれども今やこれだけ物や情報、サービスに溢れている。窮屈さと引き換えの安心なら自分には必要ないと考える人が出てきたっておかしくない。
「今、彼には家賃として月に5万円入れてもらってるんですけど、“Aちゃんは俺が納めるこのお金が無痛分娩の費用の足しになったりするわけでしょ。だから俺にも、生まれてきた赤ちゃんを育てる権利があるってことだからね”なんて言ってるんですよ。結局、今は3人で、誰が何時のミルクを担当するかを話し合ってます」
特定のパートナーを持たない男性が、友人夫妻と暮らし、その子育てに参加する。関係性を示す言葉の有無、あるいは社会的な保障の有無にかかわらず、そのときの自分にとって、本当に心地のよい人の中で暮らしたいと願う人は、これから、ますます増えていくのではないだろうか。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら