この連載も今回が最後となる。お読みいただいた方には感謝申し上げたい。と、いきなり、終わりのような始まりなのだけれど、連載のタイトルに「平成の終わりに」とついていることだし、縄文時代の終わりの話を書いてこの連載を終わりたいと思う。
縄文時代後期には植物栽培が行われていた
日本列島は南北に長い。ゆえに、さまざまなことにタイムラグが生じる。東京の流行が全国的に流行かというと、そんなことはなく、タイムラグが生じてゆっくりと地方へ到達することも少なくない。時に、地方によっては「え?まだそれが生き残ってんの?」みたいなことが起こることもある。それはそれで地方の味わいである。
南北に長いということは、自然環境も如実に違う。ちなみに原稿を書いている日の沖縄の気温は21℃で、札幌の気温が2℃である。同じ列島内でこれだけ気温が違えば自然環境も違うし、暮らしや思考も変わるのは当たり前の話と言える。
その自然環境が影響したのだろうか。縄文時代の後・晩期、冷涼化していた西日本は森から得られる食料確保が難しい時代に突入していたようで、 アワやキビなどの穀物を栽培し、なんとか生き延びようとしていたと考えられている。
とはいえ、あくまでも農耕は食料確保の1つの手段であり、基本的には彼らはずっと変わらず、採集・狩猟・漁労で暮らしていた。穀物を育てることはリスクヘッジだったとも言える。これ、今まで学校で習ってきたことと、違うんじゃない?
そう思うのは私だけではないはずである。
縄文人といえば、狩猟採集漁労という森の恵みによって暮らしてきたと習ってきたのに、どうやら違うらしい。「農耕」をどう捉えるか、ということは、いまだ議論があるのだけれど、後・晩期の西日本の縄文人だけでなく、中期に中部高地に暮らした人々も、どうやら野生のツルマメをまいて、植物を育てていたことが明らかになってきている。
ただし、主食かどうかまではわからない。わからないけれど、この時期の中部高地は気候が温暖で、食料も豊富だったと考えられるから、「もしものために、やっとくか」ぐらいでタネをまいていたんじゃないかと個人的には考えている。
話がそれた。
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