両者の間に、どのようなタイミングで接触が持たれたのかはわからない。わからないけれど、昔言われたような(というか、学校では縄文人の後に弥生人が日本列島にやってきて、稲作を始めたと習った人が多かったのではないか)弥生人が縄文人を駆逐した、的なことはなかったのである。どうしてこんな風に刷り込まれてしまったのか。
縄文人がいなくなって、日本列島の主役が弥生人にすり替わったわけではない。この早良平野のように、縄文人と一定の距離を保ちながら渡来の人々が暮らし始め、いつしか両者が混じり合って、水田稲作を広めたのである。つまり、水田稲作は縄文人が選択したことだった。
もちろん、水田稲作を採用するということは、その社会的な仕組み(組織的な集落運営や祭祀の仕方など)を受け入れることになる。それはすなわち、支配されるものとする者を作りだし、土地に縛られる生き方を選択するということ。
コメに依存するようになったら…
だからといって、狩猟採集業の暮らしをやめたわけではない。ちゃんとどんぐりは拾い集めているし、動物も沢山食べている。畑だってやっている。ただ、時が経つにつれてその割合に変化が起きて、コメに依存するようになるのだ。これが、そもそも間違いだと個人的には思う。縄文時代のようにさまざまな食料を確保することで、リスクヘッジを行えばよかったのに、コメに依存し始めたことで、不作の時にえらい目にあうのだ。
「まずい、今年はうちの田んぼは不作で、集落の皆を食わせていくだけのコメが確保できなかった。かくなる上は、となりの集落の米蔵(高床倉庫)を襲うしかない……」と、思ったかどうかはわからないが、こうして争いが始まるのである。
これだけではない。今でも田んぼの水争いはある。水の管理は本当に大切で大変な問題だ。同じように、水田稲作が始まった時期も水を巡って争いがあっただろう。話し合いで折り合いが付かなければ、武力によって解決するしかない。弥生人は戦闘的だとか、好戦的だとか言われるが、こうしてみるとやむにやまれず争いをしていたとも考えられる。
そもそも、弥生人と言っても、始めの頃は弥生文化を選択して生きている人たちを指す言葉であり、時代区分は便宜的に今の人たちがしているだけで、繰り返しになるが、稲作を始めたのは縄文人なのである。
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