こうして西日本の縄文人の間に、「植物を育てる」という暮らしが定着しだしたころ、朝鮮半島西南部から、海を渡ってやってきた人たちがいた。
のちに、渡来系の弥生人と言われる人たちである。彼らは水田稲作の技術と、それに伴う社会的な仕組み、例えば、コメの豊穣を祈るためのまつりごとや稲作を行うための組織運営などを持ち込み、それを中心に据えて暮らした人々である。これが、縄文晩期の北部九州での出来事。
渡来人が上陸し、日本列島で最初に水田稲作を始めた場所が、福岡県の早良平野と言われている。その平野の上流から中流域にかけて、もともと縄文人たちは暮らしていた。森にも川にも近く、さまざまな場所で食料確保ができるように選ばれた場所といっていい。
1つの列島に2つの文化が存在した時代
その下流域に目をつけたのが渡来人である。彼らは、その地を新天地として暮らし始めた。一方、その頃東日本では、以前と変わらず狩猟採集漁労の暮らしを行い、遮光器土偶を作り、縄文的な暮らしを続けていた人々もいた。
縄文時代晩期、それは、1つの列島の中で、2つの文化が存在した時代なのだ。その後、弥生時代に数百年かけて、水田稲作が列島内に広がっていく。
ここで少し、最初に米作りを始めた早良平野の人々を想像してみてほしい。確かに暮らしている場所は違うし、きっと緩衝地域もあったと思うが、お互い、どうにも目に付いたはずだ。
中、上流域に暮らす縄文人からしたら「なんだ?あの平たい顔をした人たちは。今までみたことない奴らだ。身長だって俺らよりもだいぶ高い。そもそもあのドロドロの中に植わってんのはなんなんだ。あいつら、せっせと草とか取って世話している」てな感じで、下流域に暮らす渡来の人々の様子を遠巻きに観察していたことだろう。
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