ヒロミ「40歳で小休止した僕が見つけた境地」 120%でなく、80%の自分を受け入れるまで

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

この展開だけは避けたかった。だから、僕は落ちぶれた感だけは出さないようにしようと決めていた。それは自分のため、家族のため、ジムのスタッフやトレーナーのためでもある。芸能界からはじき出されて、急に遊び始めたわけでもない。仕方なくジムを始めたわけでもない。しがみついてまでやりたくないからテレビから離れ、遊びたいから遊び、ジムをやってみたかったからやっているのだ。

でもこういうときは、両手を上げて、「はい。たしかに1つの世界で必要とされなくなりました。負けました」と、実績もプライドもぽいっと捨てられるよう自分と対話するのが、小休止に入ったときにするべきことなのかもしれない。

それから約10年、2014年あたりからまた急に風向きが変わり始めた。タレント・ヒロミが求められるようになったのだ。長い小休止の間、心のどこかで「また俺みたいなキャラクターを求めてくれる人が現れることもあるのかな」とは考えていた。しかし、本当にそうなるとは思っていなかった。始まりはある番組で、ママ(松本伊代)のことを話すワンコーナーだった。そこから4年で状況はがらりと変わった。

正直、自分でも「なんで急に?」という気持ちが抜けない。50歳になって再ブレイクなんて言われる日がくるとは夢にも思っていなかった。

変わったことといえば、小休止の時間を経て力の抜きどころが見極められるようになったことだろう。実際、戻ってきてから旧知のスタッフや先輩から「最近、力抜けていいよね」と言ってもらえる。ブランクがあったおかげで、「8割の力加減で、周りを生かすとうまくいく」と気づけたのだ。

力の抜きどころを見極める

小休止前の僕は生き急いでいた。全力を出す自分をモノサシにして、周囲の人たちを測っては勝手に「ぬるい」と苛立っていたのだ。

なぜ、生き急いでいたかと言えば、その理由は18歳で起こした交通事故にある。緊急手術を受け、破裂していた脾臓を摘出。腹には30㎝の傷跡が残ったものの、奇跡的に助かった。以来、「俺の人生の時間は、人よりも短いんじゃないか?」という意識を持つようになり、それが生き急ぎがちなスタイルにつながっていったのだと思う。

仕事に対しては200%で向き合って、芸能界で売れていきたい。遊びにしても「やりたいと思ったものは、あれもこれもやっておきたい」と。自分がそういう気持ちだから、そうではない人を見ると腹が立って仕方がない。それはスタッフに対しても、共演者に対しても抱いていた気持ちだ。「仕事は100%で向き合って当たり前。120%どころか、200%でやんのよ!」と。そうしなければ上には行けない。短い人生で結果は出せないと思っていた。

ところが、自分でジムを始めてみて、よくわかった。世の中100%の気持ちと力を出し切って働いている人はほとんどいない。お互いが補い合って、甘えもあって、許しもあって、支え合っていくからチームがうまく回っていく。ジムを立ち上げ、スタッフが増えていった当初、僕はそれがよくわかっていなかった。

次ページ「100%は出さなくていい」
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事