さかのぼれば、交際終了手紙を書く約3年前、玲子は家族に宛てて「意思表明書」を書いていた。意識が明確なうちに、本人が希望する終末期医療やケアなどについて書く文書のこと。遺言書と違って法的拘束力はない。
表明書には「治る見込みがない場合の延命治療は不要」で、「葬式は家族だけで済ませて、供花や香典も不要であること」「自分の持ち物はすべて処分してほしいこと」などが書かれ、家族への感謝の言葉で結ばれていた。便せんに鉛筆で毅然とした筆致で書かれ、2枚目には署名と割印がある。
この文書から、親友への交際終了手紙や、小説教室の休会は周到な準備の一環だったことがわかる。玲子の毅然とした終活に、1人の訪問看護師が小さな花を咲かせることになる。
70代夫婦が恋人つなぎ散歩をできた理由
「ご主人のこと、お好きですよね?」
そう尋ねた訪問看護師の今井厚子は、無言だった玲子が一瞬、その口元を小さくほころばせたのを見逃さなかった。昨年8月の緊急入院先から自宅に戻り、今井が同月末から玲子の自宅に通い始めて2、3回目の頃。
「『その気持ちをうまく言えないなら、手紙を書きましょう』と提案させていただきました。どなたにでも、そんなぶしつけな質問をするわけではありません。でも、玲子さんが反射的に見せた口元の笑みを見て直感しました」
今井はそう話した。
玲子の趣味は登山と小説を書くこと。自分の気持ちを人に言い表すのが苦手で、小説教室に約20年通っていることを今井は知っていた。
自宅のリビングに置かれた玲子のベッドの脇で寝起きする、夫の康弘(仮名・80歳)の献身的な介護ぶりからも、2人の強い絆を感じてもいた。
一方で、1930年代生まれの2人が、今さらお互いの気持ちを言葉にするのは難しいと考えた今井は、リハビリの一環として2つの提案をした。
「まず、奥様の手をご主人に握っていただき、『このように冷たくなりがちなので、手を時々マッサージしてあげてください』とお願いしました。あとは、ベッドに寝たままだと筋力が落ちてしまうので、『奥様が体調のいい日には、できるだけお2人で散歩をなさってください』ともお伝えしました」
散歩時は転倒防止のために、ご主人から奥様と手をつないであげてください、と助言することも忘れなかった。康弘はこう振り返った。
「わからないことをこまめにメモしておき、訪問のたびに今井さんにあれこれと質問すると、自分が答えられるものと、担当医に質問すべきものとを瞬時に分けて、つねに的確な答えを返してくれるのでありがたかったですね」
その信頼感から、康弘も今井の提案を忠実に実行した。ところが長女の聖子によると、手つなぎ散歩は当初かなりぎこちなかったらしい。
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