徳川家の末裔「95歳」で作家になった女の一生 「徳川おてんば姫」の息子が語る母の姿

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1941年結婚式十二単衣(写真:井手純)

久美子さんは昭和16(1941)年に19歳で、徳川家と縁が深い福井松平家の松平康愛さんと結婚された。写真を見ると、今見てもまったく古びれない美男美女のカップルだ。

昭和18(1943)年には長女が生まれたが、康愛さんは南洋パラオに出征することが決まってしまった。

太平洋戦争が開戦し、本土空襲が始まった。宮内省関係者にゆかりのある八王子に疎開した。

「それまでお姫様のような生活をしていたのに、毎日リヤカーを引いて働いたそうです。サツマイモを担いで運ぶから、背中はアザだらけになって。自給自足の生活をしていたそうです。

母はすでにその頃から、適応力が高い人だったんですよね」

戦争は終わったが、康愛さんは帰ってこなかった。戦死したとの報せが届いた。

まだ若かったため再婚の話が来た。

いくつかは断ったが、結局康愛さんと親友だった軍医だった井手次郎さんと結婚することにした。井手さんは、サイパンで亡くなったと言われていたが、戦後ひょっこりと帰ってきた人だった。

結婚してしばらくは目白にあった井手家に住むことになった。戦争で家を失った親族など二十数人が暮らしており、久美子さんがお風呂に入る時は最後だったという。お湯はほとんど残っておらず、ドロドロでとても入れるような状態ではなかった。

しばらくして横浜に引っ越して、病院を開業した。そこで純さんは生まれた。

サイパンで見ていた地獄と比べれば

「かなり治安の悪い場所だったようです。まだアメリカ人向けの売春も盛んで、窓からは男女がまぐわっている姿が見えたと聞きました。性病の治療も多く、淋病だ、梅毒だ、パイプカットだ、そんな言葉が飛び交ってました。

ヤクザも多かったですから、そういう人たちはケガをして、しょっちゅう病院に来ていたそうです」

厳しい状況ではあったが、次郎さんはサイパンで地獄を見ていた。

片腕がふっとんだ人や、足がなくなった人たちにモルヒネを打ち、背中にかついで走り回ってた。

飛行機戦で負けた敵兵が飛行機から飛び降りたが、パラシュートが開かずに地面にたたきつけられた。ぺっちゃんこになった遺体を、シャベルとバケツで片付けた。

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