「最近はたまにしか会わないけど、父親はメチャクチャな人。パチンコで負けて母親とけんかして家に火をつけたり、仕事も全然続かない。ろくでもないです。そんな家なのでずっと貧乏。母親はずっと私を支配しているというか、首を絞めて殺そうとした10日前まで母親の言いなりの人生。自分じゃ何一つ決められなくて、カードを返して以外に何も意見を言ったことがないし、全部母親に言われるがままでした」
畑中さんは中学、高校といじめられていた。女子からブス、死ねとののしられ続けて、今も地元には誰も友達はいない。子どもの頃から会話をするのはずっと母親だけで、母親の言うことはすべて正しいと思って育った。病弱で家にいるだけの母親も娘に依存し、過干渉だった。部活、進学、買い物、人間関係とあらゆることに口を出して、畑中さんはそれを疑うことなく従った。
「今思えば、母親には全部否定されて生きてきました。中学校のときに漠然と、将来は先生になりたいと思っていたけど、『あんたじゃ無理、できるわけがない』みたいな。あと、いつも親戚とか人と比べられて、勉強とかスポーツとか、何もかも中途半端だからバカにされるし、お母さんも恥ずかしいみたいな。『誰々ちゃんはこうなのに、なんであんたはこうなの? 』とか。いつもそんな感じでした」
勉強はできた。中堅上位の進学校に進んだ。母親に否定され続け、高校生の頃には先生になりたいという夢は消えていた。自分の家が貧乏だと気づいたのは高校2年生のとき、母親は口癖のように「お金がない、苦しい」と繰り返し言うようになった。
就職を希望したのは、学年で1人だけ
都内の私立大学に指定校推薦で行ける評定はあった。しかし、母親は「家が苦しいんだから、大学進学だけは絶対にダメ」と何度も、何度も言う。最終的には母親だけでなく、親戚、父親などにも「大学なんて行くもんじゃない、とんでもない」と聞かされた。就職を希望したのは、学年で1人だけだった。
「家が苦しい。だから、自分は働かなきゃみたいな洗脳です。お母さんとか親戚が代わる代わる大学はダメって。学歴が低いと賃金が低いとか人生不利になるとか、そのときは全然知りませんでした。自分が働いて母親を支えるって。使命感というか、そういう意識はあった。だから先生には進学を薦められたけど、母親は絶対に許さないだろうし、聞きませんでした。もうさっさと働こうって思っていました」
進学校なので高校には就職の情報はない。新卒正社員の仕事は見つけることができなかった。地元には工場と介護くらいしか仕事はなく、通勤に車は必須だったので正社員の仕事は断念した。卒業してすぐに徒歩圏のパチンコ屋でアルバイトをはじめて、19歳のときに携帯販売の代理店に移った。どちらも時給の非正規雇用だった。
「そのときは、家から出るっていう選択肢は自分の中になかった。母親のそばにいたいと思っていたし、車もないし、通える範囲の仕事をしてパチンコとか携帯販売のアルバイトってことに不満はなかった。ただ、銀行の口座を作って最初から母親が管理していて、給与は本当に全部母親に渡していた。仕事の同僚にそれを言ったら『それ、ちょっとおかしいよ』って言われたけど、自分はずっとおかしいとは思っていませんでした」
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