23歳の「野球エリート」が大学卒業後に描く夢 日本一になった山根佑太がバットを置いた訳

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山根が高校卒業後に進学先として選んだ立教大学野球部は東京六大学の名門のひとつだが、1999年を最後にリーグ優勝から遠ざかっていた。

「立教大学は自由な雰囲気があって、上下関係もありませんでした。先輩を『まっちゃん』と呼ぶような。浦学で1学年上だった佐藤拓也さんには、『外野手がいないから、一年生から試合に出るチャンスはあるよ』と言われたのですが……」

しかし、大学では思うような結果が残せない。自由な校風の立教大学だから、ライバルであるはずの上級生も目をかけてくれた。「頑張れよ」と声をかけてくれる人もいた。しかし、山根のバットから快音が聞かれることはなかった。

「金属バットから木製に変わった影響はありませんでした。高校時代は練習で竹バットを使っていたので。でも、それまでのように打てなくて……ずっと歯がゆい思いをしていました」

それでも期待の新人だけにチャンスは巡ってくる。一年春のリーグ戦からベンチに入ったものの、結果は残せなかった。3年間で22打数2安打、打率は1割にも満たなかった。

「甲子園優勝チームのキャプテンということで、期待度が相当上がっていましたね。でも、もともと僕の能力が飛び抜けていたわけではありません。野球は個人競技じゃない。あの大会では、エースの小島和哉(早稲田大学。ドラフト3位で千葉ロッテマリーンズへ)が抑えて、みんなが打ったから勝てたわけです。たまたま僕がキャプテンだったというだけなのに……ハードルが上がり切っていて、膨れ上がった期待に応えようと、もがきにもがいた3年間でした」

鳴り物入りで入学してきただけに、成績を残せなければ肩身は狭い。風当たりは強くなり、自分を誹謗中傷する「声なき声」が聞こえてきた。

「ちょっと打てないと『あの山根はダメだ』となりますよね。『インターネットでこんなこと書いてあるの見つけたよ』とわざわざ教えてくる人もいました。そういうのがうざったかったし、悔しかった」

誰のために野球をやっているのか分からなくなった

山根に期待したのは関係者だけではない。当然、両親は高校時代と同じような活躍を求めていた。

「そんなときに思っちゃったんですよね。『何のために、誰のために野球をやってるんだろう』って」

仲間とただ楽しくプレイした先にいつも勝利があった。だからこそ、厳しい練習も苦にならなかった。

ずっと目の前の試合に勝つことだけを考えていたのに。

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