「対米従属論者」が見逃している吉田茂の素顔 天皇制を守った吉田の愛国主義とは?

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吉田は、自国の文化や伝統への敬意をもってはじめて、他国の伝統や文化への敬意も生まれると考えていた。他方で、自らが「愛国者」であるからこそ、他国もまた自国の伝統や文化を愛することを理解していた。

「要するに各国にはそれぞれ立派な歴史と伝統がある。その歴史、伝統の精神を飽くまで尊重し、それを基礎にして、その時代に応ずる政治組織、経済制度が打ち建てられ、発展せしめらるべきものである」(吉田茂『回想十年・3』<中公文庫、1998年>93ページ)

そのような吉田の皇室観を、政治学者の原彬久東京国際大学名誉教授は、次のように説明している。

「吉田にとっては、『皇室すなわち国家』である。『皇室がわが民族の始祖、宗家』であればこそ、『皇室を尊崇するのが、人倫の義であり、社会秩序の基礎』であるというのが吉田の天皇観である。しかもこの『尊皇』の思想こそが彼の政治行動を突き動かす原衝動ともいうべきものであり、一個の美学でさえあったといってよい。吉田からすれば、アメリカが『国体護持』ないし『天皇制維持』を敗戦国日本にもたらしたとき、同国の占領統治はあらゆる意味において許されるものであった」(原彬久『吉田茂 ―尊皇の政治家』<岩波新書、2005年>233ページ)

マッカーサーは、「日本は戦争に敗れたとはいえ、皇室の存在は以前盤石の重きをなしている。この皇室を中心に団結せざれば、日本の再建は図り難い」(原彬久『吉田茂 ―尊皇の政治家』<岩波新書、2005年>108ページ)と、日本の「国体」を尊重し、これを護持する姿勢を見せていた。だからこそ、「愛国者」の吉田は、マッカーサーに協力することにしたのである。日本の「皇室の存在」を守ろうとする点において、吉田とマッカーサーは立場を共有していたのだ。

「米国流外交」が嫌いだった吉田茂

同時に、吉田茂の政治指導を理解する上でもう一つ重要なことは、吉田が「英国流外交」と「米国流外交」の二つの違いを認識して、前者を高く評価し、後者に対して比較的厳しい評価をしていたことである。

しばしば英米は同じ言語や文化を有する国家として、その共通性が語られる。だが、吉田の場合は長年の外交官としての経験、また自らの駐英大使としての印象からも、この両国の外交の伝統の違いを鮮やかに描いている。

「英国人は植民政策や対異民族政策においては、何んといっても何十年何百年の経験を持っている。短兵急に自己の主張を相手に押しつけるという態度ではなく、急所、要所だけはがっちり押えておいて、あとは或る程度先方の自由に任せたり、あるいは相手方の意向も相当聴き入れるといったやり方である。実証的、実利的だともいえるし、人によっては狡猾だとみるかもしれぬ」(吉田茂『回想十年・4』<中公文庫、1998年>34-35ページ)

他方、吉田は「米国流外交」には厳しい見方をしている。

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