45歳で復活した男が見せたボクシングの本質 沢木耕太郎「拳の記憶」より

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私は、ボクサーが肉体をぎりぎりまで追い詰めていったとき、逆にその肉体がボクサーを信じられないほどの高みにまで連れていってくれるということを、輪島によって教えられた。

だが、その肉体も、絶対の精神の前には敗北することがあるということを見せつけられたのは、モハメッド・アリがアフリカのザイールでジョージ・フォアマンと戦った、いわゆる「キンシャサの奇跡」と呼ばれる試合においてだった。

たったひとつの技がボクサーを一変させる

やはり20代だった私は、ユーラシアへの長い旅の途中、イランのイスファハンという古都で、通学途中の少年たちと一緒に町角の電器屋の店先に飾ってあるテレビでその試合を見たのだ。その第8ラウンド、まさに「サンドバッグのように」打たれていたアリが、わずか5発のパンチで圧倒的な肉体を持ったフォアマンを倒してしまう。

そのときの驚きを、私は吉本隆明との対談でこう語ることになる。

スポーツにおける肉体的なるものと精神的なるものとの相関関係をどう考えたらいいのだろうか、という吉本隆明の問いに、モハメッド・アリがキンシャサで採った「ロープ・ア・ドープ」という作戦を例に出して説明しようとしたのだ。

《有名なロープ・ア・ドープという作戦ですけどね。ロープ際にうずくまるようにして打たれつづけ、相手の疲れを待って2分30秒から反撃するという、それを何回でもつづけるという、際どい作戦です。それはもう、自分の超越的ななにかを信じなければ、とうてい支え切れない方法論だと思うんですよ。で、アリが勝った。それはまさに精神性の勝利というふうに考えられるから、あのアリの勝利というのは劇的な、スポーツの世界にとっても劇的なことだったわけです》

ボクシングは、瞬間のスポーツであり、肉体のスポーツであり、精神のスポーツである。だが、ボクシングは何より技の錬磨によって、ボクサーを異次元に連れていってくれるということもある。たったひとつの技が、あるいはその技に対する理解が、ボクサーを一変させてしまうことがあるのだ。私はそれをカシアス内藤によって教えられた。

あれはエディ・タウンゼントの葬儀が四谷の聖イグナチオ教会で行われたときだった。一緒に参列した内藤と、ひとりの若者の話になった。

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