45歳で復活した男が見せたボクシングの本質 沢木耕太郎「拳の記憶」より

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彼、大和武士は、少年院で『一瞬の夏』を読み、出所したらボクサーになろうと思ったのだという。30代の終わりに差しかかっていた私と内藤の目の前に現れたその若者が、ふたたび私たちを結び付けることになった。彼は全日本の新人王になり、順調にランクを上げていたが、大和田正春の持つ日本タイトルに挑戦し、返り討ちにあっていた。しかし、それから間もなく、網膜剝離になった大和田がタイトルを返上し、空位になった日本タイトルの決定戦に出場できることになった。エディ・タウンゼントの葬儀の直前、私は王座決定戦を間近に控えた大和と会い、このままでは今度もタイトルを取れないのではないかという不安を覚えていた。彼には何かが足りないように思えたのだ。

利き腕と反対でジャブを打ったらどうなるか

その話を持ち出すと、内藤が言った。

「俺たちの本を読んでボクサーになった奴を、日本チャンピオンくらいにしないっていうのはまずいよね」

そのひとことが、私たちを一気に動かすことになった。所属するジムの会長に話をつけ、タイトルマッチまで私たちが大和を預かることになった。具体的には、内藤が大和のコーチをすることになったのだ。といっても、トラックの運転手をしていた内藤には、1週間に1度、土曜の午後しか練習を見る時間がなかった。

その初めての日だった。作業服を着たままの内藤が練習用のグラブを無造作にはめ、リングに立って大和に言った。

「好きなように打ってきな」

そこから軽いマス・ボクシングが始まった。

内藤が左でジャブを放ち、大和が右で払う。しかし、そこでいきなり動きを止めると、内藤がこう言った。

「本能を抑えてごらん」

大和はもちろん、リングの外で見ていた私にも、意味がわからなかった。

すると、内藤は、さらにこう続けた。

「人は目の前に何かが飛んでくると、本能的に利き腕でそれを払おうとする。いまのおまえがそれだ。俺が左でジャブを打つと、おまえは右で払った。それが本能だ。でも、それでどうなった? 俺はちょっと右に体勢を振られたけれど、それだけだ。もし、おまえが本能を抑えて、左でジャブを払ったらどうなると思う?」

次ページ次の瞬間、驚きでほとんど声を出しそうになった
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