銀座が「カフェの聖地」として別格である理由 「名店」も「女給」人気も、ここから始まった
2018年は「日本のカフェ」にとって130年の節目になる。資料で存在が確認できる国内最古の喫茶店「可否茶館」(かひさかん)が、1888年に現在の東京・上野で開業したからだ。
この店は4年で幕を閉じたが、その後、日本でカフェ(当時はカフェー)が本格的に発展したのは、1911(明治44)年に「銀座」に相次いで開業した3つの店、「カフェー・プランタン」「カフェー・ライオン」「カフェーパウリスタ」によってだ。「プランタン」は日本初の会員制カフェ、「ライオン」は女給(現在のウエイトレス)の接客、「パウリスタ」はブラジルコーヒーを広めた店としても知られる。
銀座には、今に至るヒトやモノの逸話が数多く眠る。8月の夏休みモードで、国内外の観光客も多い「銀座4丁目の交差点」から、その一端を紹介したい。
「獅子と虎の対決」があった
和光(服部時計店)や三越銀座店がある銀座4丁目交差点は、かつて尾張町交差点と呼ばれた。銀座を埋め立てた藩のひとつ、尾張藩から取ったという。
この交差点の「筋向い」にあったのが、前述の「カフェー・ライオン」と「カフェー・タイガー」(大正13年開業)だ。
ともに若い女給が、和服にエプロン姿で接客して、男性客に人気だった。当時のメディアからは店名をとって、「獅子と虎の対決」とも言われた。ライオンの女給は、白いエプロンの紐を前で結び、鉛筆をぶら下げた当時の正統派スタイル。
一方のタイガーは、さまざまなタイプの女給を取りそろえて、男性客にアピールした。その様子を記した次の本もある。
著者の浜田義一郎氏(1907~86年)は国文学者で、東洋大学教授や大妻女子大学教授を務めた。川柳や狂歌研究家として知られた人だ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら