その矢先に起きたのが、2011年3月の東日本大震災でした。松田社長は、悲惨な被災地の状態を見るにつけ、何かやらねば、という衝動に駆られました。自分は何ができるのか、と悩んだ時に浮かんだのが、1995年1月の阪神淡路大震災の時の父親の姿でした。プライバシーがない、ということから、段ボール箱300セットを間仕切りとして避難所の西宮中学校に届け、大変に喜ばれたことを思い出したのです。
そこで行政の方に、こうした間仕切りであれば寄贈したい旨申し入れました。ところが、混乱しているのか、返事がありませんでした。ちょうど被災地を視察に行っていた国会議員の友人がいたので連絡を取ると、「物質的な援助はそろってきたが、プライバシーなどの心のケアはできていない、ぜひ送ってほしい」とのことでした。
輸送を自衛隊に頼もうと行政の危機管理室に電話しましたが、被災地の県の要請がないと自衛隊は出動できない、との返事。埒(らち)が明かないので、会社の青森出身の社員にもう1人社員をつけ、自社のトラックに1200セットの間仕切り段ボールを乗せて出発させました。
松田社長自身も、その後6回ほど、福島までの片道11時間を分担して運転しました。段ボールの色も通常の茶色ではなく、被災者の気持ちが明るくなるようにと白の下地にし、そこに日の丸と「がんばろう 日本」の赤い文字を印刷。天皇、皇后両陛下の被災地慰問が報道された時、その背景にマツダ紙工業の段ボール間仕切りが写っていて、話題にもなりました。
授乳室や箪笥も
その後、母親がトイレで授乳している、という話が聞こえてきました。被災地の希望ともなる赤ちゃんなのにそれでは可愛そうだ、と思い、段ボールで授乳室を数セット作って福島や郡山に運びました。これは現地のお母さん方から、大変に喜ばれました。次は、衣類を整理して入れるものがない、という声がありました。同社としては初めての試みでしたが、今まで培ってきた加工技術を活かして作り上げ、現地に累計で1000個の段ボール箪笥(たんす)を届けました。
そうこうするうち、震災の影響で関西の景気も冷え込み、マツダ紙工業も業績が10%ダウンしました。支援もままならぬ状況になってきました。社員からも、他人の支援をしている場合ではない、という意見が出ます。経営者としては悩みどころです。
その同じタイミングで、福島県南相馬市在住の73歳の方から、達筆の感謝状とともに、会津磐梯山の絵と「復興への勝利」の文字が描かれた間仕切りが返送されてきました。段ボール箱は、確かに物流には役立ちますが、最後は不要品として廃棄される運命で、仕事のやりがいとしては虚しいところがあります。
そう考えていた松田社長は、この出来事で、「われわれのやっていることが皆の役に立ち、人々の心に後々まで残るんだ」と実感したそうです。その後、社員に再度相談したところ、皆も共感して支援を続けよう、ということになりました。
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