「テレビ」も「ネット」も年を取ってしまった 糸井重里さんが語るテレビとネット

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フィクションにまで現実の倫理が及ぶようになり、窮屈になった(写真:Marco_Piunti/iStock)
6月6日、人気サイトの「ほぼ日刊イトイ新聞」が20周年を迎えた。
かつて「テレビは古い友人、ネットは新しい友人」(『GALAC』2009年8月号)と語った糸井重里。今、その友人たちとは、どのように付き合っているのだろうか。広告、テレビ、ネットの世界でその才能を遺憾なく発揮してきた糸井が今、イベントの開催やアプリの開発にもいそしむ動機を聞いた。

暴かなくていいことを平気で暴く時代

──「テレビは古い友人、ネットは新しい友人」とおっしゃったのは9年前。友人たちは、あの頃から変貌しましたか。

当記事は『GALAC』8月号(7月6日発売)からの転載です(上の雑誌表紙画像をクリックするとブックウォーカーのページにジャンプします)

それぞれに年を取りました。まるで年寄りがモノを言うような感じで、どちらも窮屈になりましたね。

テレビでは「公共の電波でけしからん」と、ポリティカルコレクトネスが当たり前。パイ投げでは「あとで美味しくいただきました」とアリバイにコストをかけ、刑事が悪い奴を追うドラマではどちらもシートベルトを締めていて、フィクションにまで現実の倫理が及んでいます。みんなが「この表現で大丈夫だろうか」と、目に見えない大衆に問いかけながら、自分の意見を探しています。

ネットも同じです。目に見えないところに共同体を作って、神ならぬ人間にはできない理想を置いて、それに合わないものを自分の正論を武器に叩く人が増えた。「そんなことを言う人とは思わなかった」型の非難も跋扈(ばっこ)している。批判を恐れて萎縮する人も増えました。

例えば、「かわいそう」って言えば、正義に思われるから勝ち。でも「かえってかわいそう」と返せば、そっちが勝つんです(笑)。「果たして、それが幸せでしょうか」とか何とか言えば、それが正論になるんですよね。

──さすが、言葉を武器にしてきただけに……。

言葉を武器にすることからは下りました。自分で「この剣、すごいだろう」って見せるのではなく、たまたま拾った人から「この剣、すごく切れる」って言ってもらいたいですね。

今は誰もがむりやり裸にさせられる時代です。テレビでは、お笑い芸人が自分を晒す見本を見せてくれる。駄目なことも含めて人間だよねっていう”人間観”がそこにはある。でもネットでは、それもできなくなってきた。暴かなくていいことを平気で暴く。言論の相対的な価値が下がって、模範回答の応酬か、効果的に傷つけ合うことしかしていません。

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