「監督交代」がプラスに働いたチームの共通点 サッカー日本代表とプロ野球は無縁でもない

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話を野球に戻します。

前々回ぶりに、私の野球人生の振り返りもさせてください。

サッカー日本代表の西野朗監督が、オリンピック代表チームを監督として率いてブラジルを破った「マイアミの奇跡」で知られるアトランタ五輪の1996年。

筆者は日本代表入りや、自チーム(三菱重工広島)でレギュラーとしてプレーし、社会人野球での5年目のシーズンを迎えた年でした。五輪の野球日本代表チーム入りをしようと猛アピールしましたが、惜しくも代表漏れをし、非常に悔しい思いをした年となりました。あとで聞いたところによると、最終選考まで残っていたそうで、もしかしたら、もう少しで五輪を経験できたかもしれない……と思うと、今でも悔しい気持ちになります。

しかし、いつまでも腐っているわけにはいきません。

五輪代表入りはかなわなかったものの、もともとプロ野球選手になるために社会人野球を選び、ここまで努力してきたのだから、次の目標は都市対抗野球本大会(東京ドーム開催)に出場してその舞台で結果を出し、プロ野球からドラフト指名がかかるように頑張ろうと、気持ちの切り替え=目標変更を行ったのです。

五輪代表選考のための合宿にはプロ野球のスカウト陣も多数来ていましたから、ここでの頑張りは自分の夢の実現に結果的に“効いた”ことになりますね。

その「気持ちの切り替え」もうまく作用したのか、うれしいことが起こりました。この前年度まではチームではなく、私だけが補強選手として呼ばれて都市対抗野球本大会に出場していましたが、この年はようやく所属チームである「三菱重工広島」としての出場が7年ぶりにかなったのです。そりゃ〜頑張りましたね!(笑)。

1996年はメモリアルな1年になった

当コラムでお話ししている私のキャリアの中には「ホームラン」というキーワードがよく出てくると思いますが、この大会の私自身の一打席目でまさにその「ホームラン」を放ち、チームに勢いをつけることができたのです。対戦相手はNTT北海道で、なんと、18-12の激戦! 当時、1試合で30得点は大会初記録だったそうですよ。

チームは初戦を快勝し、波に乗って本大会の台風の目となり、決勝戦まで進みました。しかし惜しくも決勝敗退。負けはしましたが、7年ぶりに出た大会で準優勝といううれしい成績を収めましたし、私個人としても、大会優秀選手賞を受賞できました。

目標であった本大会でのアピールはしっかりできましたから、大会後はプロ野球のスカウトからの引き合いがいよいよ現実のものになります。その中でも熱心に声をかけて下さったのが当時のオリックスと近鉄だったのです。

そういう意味でも1996年は非常に印象深い年となったのです。筆者の振り返りの続きはまた次回コラムをご期待ください。

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