「日本に眠る財宝」はどこに総額いくらあるか 「1000兆円」の説も。あなたの自宅下にも?
テレビ局が参加して大プロジェクトが組まれた「徳川幕府御用金」などはいずれも見つかっていません。しかしながら、その一部と見られるものが出てきたり、もう少しで発見に至ったかもしれない「探索エピソード」は、いくつか知られています。
発見されていた「武田信玄の黄金」
武田信玄は、「重要な資金源のひとつだった黒川金山(山梨県甲州市)の古い坑道に、莫大な軍資金を隠していた」とされています。
明治の終わりごろ、この鉱山付近の谷で、ある男性が転落死するという事故がありました。このとき、男性の所持品として「金の延べ棒10本」と、破れたノートが発見されました。
ノートの内容の大半は判読困難でしたが、文字の断片からは、一緒に見つかった「金の延べ棒」が、見つけたうちのごく一部であることや、発見場所への目印らしき内容が記されていたと推測できる形跡もありました。
1971(昭和46)年、武田信玄の一族にあたる豪族、勝沼氏の居館跡(山梨県勝沼町)付近のぶどう畑から、碁石形の「碁石金」18粒のほか、細長い楕円状の金貨「蛭藻金(ひるもきん)」2枚など、多数の甲州金や古銭が発見されました。これは、「勝沼氏が隠していた軍資金の一部」とも推測され、武田領内に金が広く「蔓延」していた様子がうかがえます。
日露戦争さなかの1905(明治38)年、ロシアのバルチック艦隊は、根拠地のバルト海からアフリカ南端の喜望峰を経由して、およそ地球半周に及ぶ大航海の末、日本近海へやってきます。しかし、日本海海戦で日本の連合艦隊と長崎県対馬沖で戦い、壊滅しました。
当時、艦隊は航海中の水・燃料・乗員の食料を補給するため、相当の軍資金(金塊)を積み込んでいました。艦隊には、日本軍と戦ったあとバルト海まで戻る「復路分」にくわえて、無事にウラジオストック港に入港した際に必要となる活動資金はまだ残されているはずでした。
実際、日本側に救助されて捕虜となったロシア兵からは、それを裏付ける証言なども得られています。
1980(昭和55)年、こうしたいきさつを知った笹川良一氏による探索が行われ、上対馬沖で沈没した巡洋艦「ナヒモフ」から、重さ10キロの「インゴット」が引き上げられました。残念ながら、それは後に「鉛」と判明するのですが、この引き上げ事業の詳しい状況は不明な点が多いのです。
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