「千疋屋」が売上高を20年で5倍にできた理由 超高級路線から脱却し、スイーツなどを充実

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千疋屋総本店の日本橋本店(編集部撮影)

誰もが知る高級フルーツブランド「千疋屋(せんびきや)総本店」。今年で184周年を迎える老舗企業だ。店内に並ぶフルーツは同社の目利きが揃えた一級品で、宝石のような輝きを放っている。

江戸時代に露店商から始まり、時代の移り変わりとともに変革を遂げ、ブランド力を高めてきた歴史がある。

発祥は江戸時代、もともとは槍術道場

千疋屋の創業は1834年(天保5年)にさかのぼる。創業者の大島弁蔵氏が武蔵国(むさしのくに)千疋村(現・埼玉県越谷市)で槍術の道場を営んでいた。しかし、天保の大飢饉で道場経営が行き詰まり、道場の庭や周辺で採れた農産物を川船で運搬し行商に転向。江戸葺屋町(現・日本橋人形町)の露店「水くゎし(水菓子)安うり処」で柿やぶどう、みかんを販売した。当時、愛称で「千疋屋」と呼ばれていたことから今に続く伝統の屋号が誕生した。

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2代目・文蔵氏は浅草や日本橋の一流料亭に青果を納め、浅草の鰹節の大店の娘だった妻・むらの人脈で西郷隆盛や坂本竜馬など幕末の著名人が顧客となり、販路を拡大。高級果実店としての地位を確立した。

3代目・代次郎氏は1868年(明治元年)、日本橋室町に本店を移転。当時では珍しい洋風三階建ての店舗で外国産フルーツの販売を開始し、果物食堂を開設した。明治初期はまだ輸入フルーツが出回っていない時代だった。

江戸時代の愛称「千疋屋」が屋号の起源に(写真:千疋屋総本店)

代次郎氏が横浜港に出掛けると、外国籍船の船員たちがバナナやパイナップル、オレンジを食べていた。すぐに船員たちに果物を物々交換してくれないかと提案したという。

次回、再び横浜に寄港するときに大量に持ち込んでくれれば高値で買い取ることを約束し、商談が成立。売価は高かったものの、外国産フルーツは人気を集めた。

その後、商社が輸入業に乗り出すと先代の人脈を生かして交渉し、商社経由で外国産フルーツの仕入れができるようになった。そして明治前半から中期にかけて「京橋千疋屋」「銀座千疋屋」などののれん分けを行い「千疋屋」の知名度を高めていった。

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