「千疋屋」が売上高を20年で5倍にできた理由 超高級路線から脱却し、スイーツなどを充実

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4代目・代次郎氏は1914年、世田谷に3000坪の農場を開設。果物の品種改良やメロンの研究を手がけ、アメリカ視察でフルーツーパーラーのヒントを得た。

関東大震災後の室町本店(写真:千疋屋総本店)

しかし、1923年の関東大震災で街中が焼け野原と化し、室町総本店も焼失。千疋屋全店で唯一残存していたのは丸ビルの支店のみ。急いで建築資材をかき集め、バラック建築の店舗で営業を再開し、フルーツパーラーをオープンした。震災から6年経った1929年に現・千疋屋総本店がある日本橋室町に本店ビルを建設。太平洋戦争の空襲で直営店を失うも、奇跡の復活を遂げた。

現社長の父である5代目・代次郎氏はハワイ産のパイナップルなど海外フルーツの輸入や支店の拡充に注力し、国内大手のフルーツ専門店に成長した。バブル景気が追い風となり、法人向けの贈答品需要が拡大。大手町や霞が関の店舗では高級メロンが飛ぶように売れたという。しかし、バブル崩壊とともにオフィス街の一部店舗の整理を余儀なくされた。

この厳しい局面で社長に就任したのが、現社長で6代目の大島博社長だった。

海外留学で学んだブランディングの重要性

大島博社長は、東京生まれの生粋の江戸っ子だ。幼少期は店頭で売れなくなったフルーツを主食以上に食べて育ち、小学生の頃にはフルーツの品種が判別できるほど味覚が発達していた。

1981年に慶應義塾大学を卒業し、経営学を学ぶために渡米。当時千疋屋の輸入事業は輸入代行業者に委託していた。今後は自社でやりたいという父の意向もあり、ニューヨーク大学で経営学を学んだ。

大学の授業で「老舗の経営学」をテーマにディスカッションをする機会があり、その時に家業である「千疋屋」のビジネスについて話すと、教授から「世界でもフルーツ専門店でここまで長い業歴の会社はない」と驚かれ興味を持たれたという。ヨーロッパではロンドンの高級百貨店ハロッズやパリの高級食料品店エディアールなど総合食料品店の老舗はあるが、フルーツ専門業態の企業がそもそも少ない。教授に誘われ、イギリスに留学。教授宅でホームステイをしながらロンドン大学に半年間通い、老舗経営学を専攻した。授業のなかで「ブランディング」を徹底的に学び、後に転機が訪れる。

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