パナ伝説のエンジニアが語るイノベーター論 特許件数1300件、ライセンス収入は380億円
石川:では、ディスラプティブな人はどこから考え始めるかというと、「いまは人気がない古いアイデア」から考える傾向があるんです。クリエイティビティやイノベーションの研究において、現時点ではそれが結論とされています。
そんなイノベーターのなかでも、何度も何度も繰り返し成功させる人、つまりはシリアル・イノベーターと呼ばれる人たちが持つ独自の方法というのは、まだまだ未開拓なんです。
僕はここ1年ほど、そうしたシリアルにすごいことをやる人、連続的に何かをする人にはどういう特徴があるのかを研究していて、そのなかで最初に出会ったひとりが大嶋さんなんです。本当にすごい人なのですが、その評価は海外の方が高く、日本では思いのほか知られていないという印象です。なので、この機会を通じて少しでも多くの読者に大嶋さんのことを知っていただきたいと思っています。
前振りはこのくらいにして、ここからは僕も、大嶋ワールドにどっぷりと浸かりたいと思います。大嶋さん、準備はよろしいでしょうか?
異端者の集団「無線研究所」
大嶋:ご紹介ありがとうございます。海外の方が評価が高いというのは、石川さんの仰る通りだと思います。というのも、日本はイノベーターに対する評価が低いですからね。ほとんど注目されません。実際にモノを作った人とか、モノを販売している人が評価される社会なんです。
それは企業内でも一緒で、イノベーターはリスペクトされません。つまり、居づらいんです。だから出ていってしまう。それでも、私達の時代は出て行くことはなかった。会社を辞めたら終わりですからね。しかし今は海外にも行けるし、どんどん出て行きますよね。
実際、イノベーターというのは異端者なんです。アメリカでは、異端者でも居心地は悪くありませんし、逆にまわりの人が助けてくれたりもします。しかし日本は同質社会ですから異端者を排除しますよね。でも、幸いなことに私は、無線研究所(無線研)という組織に救われました。
無線研というのは、松下電器産業(現パナソニック)に存在した、部品・材料・電子機器全般を担当する研究所です。この無線研究所は、松下幸之助が「イノベーションを生むための仕掛け」として考案したという仮説を、私は立てています。1953年、幸之助はアメリカのベル研究所へ視察に行き、その後、中央研究所(中研)を設立しました。中研と同じ規模の無線研ができたのは、その9年後の1962年です。何故、同じ規模の研究所を2つ作ったのか、不思議に思われるかもしれません。
中研は、一般的に必要と考えられるテーマをすべてやっているという意味では、いわば研究の「デパート」で、優等生型の人材が配属されていました。これに対して、無線研は「専門店」で、優等生型でないちょっと変わった連中の集まりでした。私自身は1974年に松下電器産業へ入社して早々、研究者としてこの無線研に配属されました。
研究分野は中研と一緒でしたが、ミッションはハッキリしていて、「中研でやっていないことをやる、つまり、他社でやっていないことをやる」でした。「こちらは専門店なので、デパートで売るものを売っちゃいかん」というわけです。なので先輩たちからは、「世界初か世界一の研究をやれ!」と、よく怒られました。無線研では何も指示を出さなくても、所員が自発的にイノベーションを起こそうとしていたんです。
無線研ができたのは1962年ですが、このとき幸之助は67歳で、まだバリバリでした。あの方は「何もしなくても自動的にできる」というやり方を基本にしていました。事業部制にしてもそうです。本人は体が弱かったこともあり、何ごともオートマティックにできるような巧妙な仕掛けを随所に作りました。その観点から言えば、研究所に関しても、自動的に、自律的にうまく行くような仕掛けを考えたはずです。「無線研は、幸之助が作ったイノベーションのための仕掛けである」と私がにらんでいるのは、それが根拠となっています。