パナ伝説のエンジニアが語るイノベーター論 特許件数1300件、ライセンス収入は380億円
あのころ、松下電器産業は「マネシタ電気」と揶揄されていましたが、実際は世界初のことをたくさんやっていたのです。当時の無線研には20人のイノベーターがいて、世界最高のスピーカーやレコードプレイヤー、世界初の画像圧縮技術などのイノベーションを次々と生み出していきました。現在の当社事業の多くが無線研のイノベーターが起こしたイノベーションを端緒としていることは、社内でもあまり知られていませんでしたが……。
無線研には「丁稚奉公」があった!?
大嶋:ほかにも、無線研には変わったところがありました。何か新しい技術を開発した場合、普通の研究所であれば、「引継書を作って工場にわたしてオシマイ」じゃないですか。しかし無線研では、少なくとも最初の1回か2回は、工場へ行き、設計して、製造して、品質管理して、販売して……と、最後までやらされるんです。大体2年くらいかかりっきりになり、それでまた帰ってくる。この一連のプロセスを、私は「丁稚奉公」と呼んでいました。
これを一度やると、自分でやったことの「出口」がわかるんです。品質がどうとか、コスト意識とか。たとえば部品代が50円だから原価50円でできると思っていたところ、実際に事業目論見書を作ってみると、はんだ付けの工賃などさまざまなコストがかかるわけで、結局750円になることを知るんです。そうすると、どこを削ったらいいかがわかってくる。こうした丁稚奉公で、事業、つまりは出口がわかる研究者が育つのです。
さらには営業の最前線にも出るので、お客さんの声を聞くことができる。実によくできたシステムだと思いました。これらを含めて、無線研は「あまりにもよくできている」ので、これは幸之助が絡んでいるに違いないと、後になって気づいたわけです。
そんな無線研から、私は一度追い出されました。実験が遅かったこともあって、研究管理部門へ異動させられたのです。研究所の予算管理やプロジェクト管理をする、いわば事務職です。研究職の道が閉ざされたとわかり、もう、奈落の底に落ちたような心境に陥りました。しかしそこで腐らず、這い上がるためにはどうしたらいいかを必死に考えたんです。
たまたま隣りに図書室があったこともあり、5時に仕事を終えてから、毎日そこで勉強しようと決めました。目標として、新しい技術分野を月に1つ習得し、必ずその分野の新しい発明をして、特許を月に1件出願する、というアホなことをやりました。それを3年くらい続けました。
本を読むだけではなく、読んでアイデアを引き出し、それをその技術分野のトップの人にぶつけました。当時の松下電器産業には1万7千人の技術者がいたので、そのなかでもトップの人のところへ夜8時くらいに行って、「すみません、この技術、私はこう変えたらよくなると思うのですが」って、相手が帰ろうとしているところに聞きに行くわけです。時には11時くらいまで(笑)。
ただ教えてもらうわけではなく、アイデアを提案するのです。あちらとしてもアイデアを持って来ているから、「ここはこうした方がいい」って教えてくれるわけです。それを毎月毎月続けました。かなり大変でしたが、当時の特許出願の記録を見ると、年に17件ほど特許を出していました。それがあったから、ほかの分野、たとえばジェットエンジンや原子力発電の発明でもできるようになりました。