「道徳の教科化」に潜む"愛国教育"の危うさ 国が道徳観を定め教師が評価するのは適切か
道徳の教科書における検定は他の教科書と異なり、特定の記述の修正を求められることはなく、教科書全体で学習指導要領にのっとっているか、範囲や表現が適切かということが問われる。文科省が不適切と判断すれば、「検定意見」として出版社に伝えられるが、修正の判断は出版社に委ねられているとされる。
しかし、学習指導要領には教えなければいけない価値として、「徳目」とも称される22の項目が設定され(高学年の場合)、それらの項目を元に教科書は編纂される。さらに、文部科学省は学習指導要領解説の中で、各項目に対する解説を細かに行っている。
たとえば、「善悪の判断、自律、自由と責任」という項目は、小学校1年生、2年生では「よいことと悪いこととの区別をし、よいと思うことを進んで行うこと」、3年生、4年生では「正しいと判断したことは、自信をもって行うこと」、5年生、6年生では「自由を大切にし、自律的に判断し、責任のある行動をすること」と、解説されている。
実際に2年生の道徳の教科書「小学どうとく」(教育出版)をひらくと、「つよいこころ」というタイトルの読み物では、「ゆう気を出すとき」の一例として「なかまはずれの子に声をかけるとき」などが書かれている。さらに、「学びの手引き」として「みなさんがゆう気を出すときは、どのようなときでしょう」「それぞれのゆう気では、何がちがいますか」「ゆう気を出すためには、何がひつようなのでしょうか」など、その価値(規範)を学ぶための問いが設定されている。
ただ、問いがあるということは答える機会があるということである。そして問いに対する回答は評価の対象になる可能性が高い。しかしどうやって彼らの「道徳的判断」を評価するというのだろうか。「発言」や「行動」に現れない心の動きこそが道徳において重視されるべきであろうし、それぞれの状況や個別具体的な場面によって判断の価値も異なる。それを一律に評価することなど誰ができるだろうか。
道徳の評価はどう下される?
新指導要領で実施される道徳の評価は、他の教科とは異なり、「数値による評価」ではなく「記述による積極的評価」とされている。積極的評価とは、褒めること、励ますことを基本とし、ポジティブな面への記述をもって評価を行うということである。
数値での評価やネガティブな指摘がなければ問題ない、という論調もあるようだが本当にそうだろうか。先生から生徒への「評価」には強いメッセージが込められている。通知表をもらったときの悲喜こもごもを思い返していただければおわかりいただけるだろう。先生から褒められることは嬉しく記憶にも残り、褒められなかったことも、一つのメッセージとなる。つまり評価を下すということは先生が一つの「規範」を作り出すことにつながるのだ。そしてそれは「何が褒められたのか」といったミクロで具体的な「行動規範」となる可能性が高い。
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